真面目さと例外

私は基本的に不真面目な人間だ。真面目ぶれば真面目ぶるほど、それは一種の冗談と化す。

つまり私が演じた真面目さが、真面目であるように見えれば見えるほど、それはたちの悪い現実味があるジョークとなるわけだ。

結局私は自分の人生を真面目なものだと思ってない。どうせ私は何もできずに死ぬから、それをよしとしているから、そういう風にしか生きられないのだ。

私は自分をこの世界に投げ出している。

誰からも愛されようとしなかったのだ。

誰も騙そうとしなかったのだ。

それもまた一種の真面目さなのかもしれない。

本性に即して生きるというのは、自分の冗談性をも認めることだろう?

どれだけ真面目なことを話していても、結局は私に関係していることでない以上、笑うことしかできない。

私はニヒリストではない。私は自分が無力であるという理由で、この世界を虚無に帰してしまうつもりはない。

私はいうなれば、無力主義者だ。自分の無力を最大限肯定し、無力なままでいようとする人間だ。だが、私はそれを万人に広げるつもりはない。それどころか、その無力という状態は、一種の権利、特権であると考えている。

私は無力だから、何の責任もなく、自由である。重力がなければ、空を飛ぶことができる。そう。私は無力だから。私は自分が無力であることを肯定し、無意味であることを肯定し、その中で何かを見つけることを欲する。

私は私の意思と存在そのものの指向性を信じているから、自分が何物にも引っ張られず、価値という価値が一切存在しないことを肯定する。

誰からも求められていないことと、誰からも愛されていないことを、最大限肯定する。

重要なのは、誰も欲しないことを欲することなのだ。それが欲することができるということ自体が、自分自身の姿を指し示す。

他者と違うこと。違う自分を許すことができること。万人に当てはまる法則など存在しないことを、自らの例外性を持って、身をもって示すこと。

人間は自らが定めた法則の例外を探し出し、それが見つからないなら、自ら作り出し、その外側に出ようとする存在なのだ。私たちは永遠に決定されないし、決定されるべきではない。

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