「書くために考える」と「考えたから書く」

 最近、書くために考えることが増えた気がした。

 人間の思考の形式はいつかあって、言語で考えるということでなく、映像で考えたり、音で考えたり、数式で考えることも、人間には可能である。

 もちろん大体の人間は自分の得意な思考形式に頼りきっているため、人間の思考は皆その一種類であると思い込みがちではあるが、実は全然そんなことない。
 
 たとえば、少しめんどくさい足し算や引き算をするとき、いちいち言語を持ち出すだろうか?

 876+134を計算するとき、どのように思考するだろうか? ひとそれぞれ違うと思う。
 頭の中のホワイトボードで筆算して解く人もいれば、「1000-876=124、134なら1010」というふうに解く人もいると思う。計算が得意じゃない人は「紙を用意しよう」と思うかもしれないし、即座に「めんどくさいからいいや」と思う人もいると思う。
 色んな思考の形式があるというのは、こういうことである。

 文章を書くのが習慣化している人は、どんなものごとも一旦言語に置き換えて考えるのが癖になっている場合が多い。あやふやな「像」や「音」で考えることが、苦手になっていたりする。映画を見るような感覚でものごとを思考するのは想像力を働かせるうえで非常に役立つが、言語ばかりに頼っていると、そういうことが苦手になる。
 絵を描いてばかりいると、言語に対する感覚が鈍くなる。言語で考えてばかりいると、ものごとを絵で捉えることを軽視するようになる。
 実際のところ、それが悪いことだとは言い切れない部分はあるが、私自身としては、何かひとつの思考形式に囚われることは、好ましくないと思っている。

 人に見せるための分かりやすい文章を書くのも悪い事ではないが、人が見ても全然分からないような煩雑とした文章を書くのも続けていこうと思っている。
 それとは別に、そもそも文章にし難いような、複雑な絵を頭の中で思い描いたり、それを繋げたり捻じ曲げたりする思考も、忘れないようにしたい。会話を想像するときに、字としての会話だけではなく、音としての会話も、忘れないでいたい。

 書くことを最終目的として、それに役立たなそうなことをやめてしまうというのは、私にとっては危険なことだ。書くために考えてばかりいると、そもそも「考える」ということがダメになってしまう気がするのだ。

 「考える人」ではなく「発表する人」になってしまう。

 私は、できるだけ多くの属性を持っていたい。発表するために考えるのではなく、考えたり、動いたり、感じたりした結果として、伝えたくなって、書くような人間でありたい。

 その方が、きっと楽しいし、人生も、内容物も、豊かになるような気がするのだ。

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