他人のために生きる

 寂しかったから宮本さんに連絡を入れると、ちょうど今私の家に来る途中だと言ってくれた。
 心が通じてるからそうなのか、それとも宮本さんが気を遣ってそういうことにしてくれたのか。
 どちらであっても嬉しいから、私は自分の胸を抱きしめて、ソファに体を預けて目をつぶった。

 人との繋がりは心を安らかにしてくれる。傷ついた心が、少しずつ癒えていくのを感じる。
 きっと、よくなるからね。
 私は自分の心にそう言い聞かせる。
 焦っちゃだめだよ。
 大丈夫だよ。

 インターホンがなったので、のそっと体を起こして扉を開ける。
「宮本さん」
「なおちゃん……一応家から確認してから出た方がいいと思うよ。女の子のひとり暮らしってだけで危ないんだし

「気をつけまーす」
 私はそう言って、宮本さんの手を引いてリビングに向かう。自分が先ほどまで温めておいた場所に座らせ、宮本さんが好きな甘めのコーヒーを入れに行く。
「なおちゃん。お菓子持ってきたよ」
「!」
 お菓子! なんだろう?
「ありがとうございます。そこに置いといてください」

 宮本さんは、私が両親に勘当されてからというもの、ちょくちょく大丈夫か様子に見てきてくれるお母さんの弟、叔父にあたる人だ。
「それで、最近どう? 体、大丈夫?」
「まぁ、平気です。毎日しんどいですけど、何とかぎりぎりやれてます」
 強がっているつもりはないけど、強がっているように聞こえるんだろうなぁと思う。悪い癖だ。いつも……必要以上に、人に心配になってもらおうとする。
「つらかったら言うんだよ? できることとかあんまないけど、できることはやるからさ」
 宮本さんは優しい人だ。昔から困っている人や悲しんでいる人が放っておけなくて、職業はそんな性格に合ったカウンセラーだけど、その性格が仇になってか、本人もよく体調を崩してお医者にかかる。でも、そういう風にして苦しい思いをすることも「クライアントさんの気持ちに寄り添うためのいい経験になるから」なんて言って、肯定する強さを持っている人なのだ。
「いつもありがとうございます。宮本さんのおかげで何とか耐えられてる部分、めっちゃあると思ってます」
 それは本心だった。宮本さんは、私と社会のたった一本の細い繋がりだった。


 高校を中退した理由は自分でもうまく説明できない。友達と喧嘩して、先生に怒られたときについ言い返してしまったせいで、その先生からも見放され、両親に相談しようと思っても忙しいからと相手にされず、自棄になって知らない男の人に頼ろうとして、騙されて、そのことでまた色んな人からひどいことを言われて、学校に行けなくなって、学校に行かないと勘当するって言われて、仕方なく勘当されて、この狭いアパートを宮本さんに借りてもらって。
 両親はなんだかんだ言って銀行に生活費を振り込んでくれるし、私も元気があるときは単発のバイトとかもやるから生活自体はなんとかできるけど……でも、この生活に未来があるかって聞かれたら、はっきり言って、ない。
 そう思うたびに、もう何もかもを投げ出して、死んでしまいたくなる。
 申し訳ないけれど、支援してくれてる人たちすら、恨めしく思う。だって、そういう人たちが私にぎりぎりのところで踏みとどまらせようとするから、そのせいでずっとつらい思いをしたまま生きていかなきゃいけない。
 でも、自分も苦しいのに、それでも誰かのためにいつも頑張ってる宮本さんみたいな人を見てると、自分だけ逃げだそうという気にはなれなくなってしまう。感謝の気持ちも湧いてくるし、嬉しいと思うし、温かい気持ちにもなる。その気持ちのためだけに生きていたっていいじゃないか、と思いたくなる。


「ねぇなおちゃん。その、迷惑じゃなければ聞いてほしいことがあるんだ」
「うん」
 宮本さんも、お仕事でつらい思いをすることが多いから、そのことを吐き出しに私に会いに来ている部分はあるんだと思う。私はそれを、嬉しいと思う。少しでも人の役に立っているという感覚。
「世の中にはいろんな人がいるんだけどね。すごくいい人もいれば、すごく悪い人もいる。悪いっていうか……ほんとはその人が悪いってわけじゃなくて、運が悪くてそういう風な生き方しかできなくなっちゃって言うのが本当だと思うんだけどさ。でも、そういう人もいる」
「うん」
「時々俺、自分のやってることが無意味なんじゃないかって思うんだ。昔はさ、自分が人を優しくしたら、その人も人に優しくなって、そういう風に優しさが繋がっていって、いつか本当の意味でみんなが平和で幸せに生活できるようになるって思って、本気で思ってた。今も、そう思いたい気持ちがある。でも実際には……自分が人に優しくしても、その人は俺のことを『いつも優しくしてくれる人』として、都合よく使うことが多くて、それでも信じてずっとそうしていればきっと何とかなると思ってたのに、その人が犯罪に手を染めて関係ない人を傷つけたりとか、そういうこともあって……その、なおちゃんみたいないい子のおかげで、俺も何とか自分を見失わずにいられるんだ。だからその、ありがとう。生きててくれて、ありがとう」
 宮本さんは言いきると、こらえきれなくなったのか大粒の涙をぼろぼろとこぼし始めて、私はあわてて宮本さんの隣に座って、背中をゆっくり撫でた。私も気づいたらもらい泣きしてて、その涙が少し口の中に入ってしょっぱかった。人生って、こういう味だなぁと思った。

「俺、裏切られたとは思ってないんだ。ほんとは、きっとそうなるだろうなって分かってた。分かってたけど、俺にできることは何もなかったんだよ。その人も苦しんでて、傷ついてきて、でもだからって、俺にその人の自由を奪うこともできなくて、でもその人が他の人の人生を奪ってしまうことは、俺にも許せなくて。どうして人は傷つけ合わないと生きていけないんだろうって思うと、もう何もかも投げ出してしまいたくなるんだ」
 いつも自分のことで精一杯の私には、宮本さんの痛みのことは分からなかった。でも、こうやって同じ時を過ごしていると、自然と私の心もきゅっと締め付けられて、宮本さんの悩みが、本当のものだということは理解できる。やりきれなくて、どうしようもなくて、それでも何とかしなきゃいけないことなんだっていうことは分かる。
「私は、いつでも宮本さんの味方ですよ」
「ごめんね。ただその言葉が聞きたかっただけなんだ」
「いいんですよ」
 何時間も宮本さんは泣き続けた。何時間でも一緒にいようと思った。きっと私の生きる意味なんて、それくらいしかないから。

 母方の祖父が亡くなって、遺産相続で親戚一同が集まった時、母が宮本さんにひどいことを言った。その内容は覚えていないけれど、私は自分の体がすごい勢いで熱くなっていくのを感じたのを覚えている。
「あんたにこの人の何が分かるんだ!」
 母親に向かってそう叫んだとき、私は自分でも驚いた。誰かに怒りをぶつけるなんて、生まれて初めてだった。でも、その怒りは、決して恥ずかしいものではなくて、抱かなくてはいけないものなのだと確信していた。
「宮本さんは私やあんたみたいな自分勝手でどうしようもない人間じゃないんだ」
「私だって、昔は宮本だったし……」
「馬鹿じゃないの」
 怒りが収まって、呆れがやってきた。自分がかつてこの人に恐れを抱いていたことが、途端に馬鹿馬鹿しくなってきて、何もかもがくだらないことのように思えた。

「なおちゃんが、あんな風に怒れるなんて知らなかったよ」
「私も知りませんでしたよ。あんなになったの、初めてでした」
「でも、気持ちよかったなぁ。俺、感動しちゃったよ」
「私もです」
 きっと私は、自分のためには怒れない人間なのだと思った。人はみんな、自分のために生きろと言うけれど、私や宮本さんみたいに、誰かのためにじゃないと生きていけない人もいるんだと思う。人それぞれでいいなら、そういう風に他の人を必要としたって、いいんじゃないかと思う。
 私たちの生き方は美しくないかもしれないけれど、でもこれ以外に生きる方法が見つからないなら、これでうまくやっていくしかないじゃないか。

 宮本さんと握手をして、別れを告げた。
 人は支え合って生きる生き物ではない。むしろ傷つけ合う生き物だ。傷つけずにはいられない生き物だ。宮本さんが救いのない理想に縋っていることは、私も宮本さん自身も分かってる。分かってても、それを追い求めるしか生きるすべがないなら、それは肯定されなくてはならないことなのだ。
 私は宮本さんみたいに生きることはできないけど、でも、私にあの生き方を否定することはできないし、否定する人を許すこともできない。

 他のことはみんなどうでもよくなった。確かに自分が救われているような気がした。

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