人から評価されるための文章って
ちょっと前に授業で小論文を書かされたときのこと。
基本的に小論文は、文体も型も、結論でさえも、ほとんど問題の時点で「書くべきこと」が決まってしまっている。
「このように書いてほしい」という出題者の願望に合わせて書くことが、もっとも高く評価されるコツである。
私はそういう風に文章を書くことが、人並み程度にできる人間ではあるが、そういう文章を書いたあとはとんでもない吐き気に襲われる。自分自身から復讐されるのだ。
「なぜおまえは、あんな誰でも書けるようなくだらない文章を書いたのか」
「仕方ないじゃないか。それが課題だったんだから」
「あんな課題、やめてしまった方がいい!」
不思議なことに、私の良心は他の人の良心とは違った働きをする。
もちろんこれには慣れている。でも、逆に考えてみるべきだ。こういうことに慣れるということ自体がおかしいのではないか?
だってそうじゃないか。自分が思ってもいないことを、自分の利益や他者の都合のためにねつ造して、まるでそれが自分の本音であるかのように偽装することを「日常的なこと(≒慣れる)」とするなんて、おかしいじゃないか!
演技なら問題はない。ただそういう仮面を被るだけなら、そんなに良心も怒らない。でも、人間は仮面と素顔を明確に区別することができないから、ずっと演じていると、本当にそういう自分に近づいていく。
「人が求める自分」を演じ過ぎると、私は実際に、それに近い人格になってしまう。
それが堪らなく苦しい! たとえそれで満点を取っても、満点を取ったのはその仮面であって私ではない。仮面を作るのがうまい私は、あくまで素顔の私であって、仮面の私そのものではない!
なんてことを考えながら、いつもとは違った感じで小論文を書いて提出した。
いつも通り出題者の求めている結論を導きながらも、ところどころユーモアを交えた「出題者の持論(と考えられるもの)批判」を紛れ込ませてみた。
どんな添削がされるか楽しみではあるけれど、恐ろしいとも思う。
でもおそらくは「内容が不適切」とか「論旨とは関係のない文」とか、そういう赤を入れられるだけでおしまいだと思う。
私の小さな反抗なんて、そんなもんだ。どうせ大学になんて行かないし、私はずっと引きこもりでいるもん。
自分を曲げたくない。都合のいいことに、「早く大人になりなさい」と強要してくるクソは私の周りにはひとりもいない。
読んでてつまらない文章ばかり書いてたら、当然、つまらない人間になってしまう。私は面白おかしいヘンテコ人間のままでいたいから、もう真面目に文章を書くのをやめようと思う。
人から評価される方法を忘れて、子供が日記をつけるように文章を書くことにする。
さようなら虚栄心! 私は文章がへただし、へたでいい! へただと思われても、うまいと思われても、そんなのは読む人が勝手に感じることだ!
そもそも文章にうまいもへたもないのだ! そこにあるのは「好き」と「嫌い」だけ!
でも人から「文章、うまいね」と言われたら嬉しいんだよなぁ。
「え、そうですか? えへへ。ありがとうございます」
とかって言っちゃうんだよなぁ……あーあ。難しいなぁ。
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