読書日記02/12

 前からの続き。

 約半分ほど。

 筒井康隆は魅力的な男性の書き方をよく心得ている。能勢も、粉川も、とても魅力的な男性だ。
 SF作家は人間に対してイロニカルな見方をすることが多くて、筒井にもそういう傾向はあるのだが、それ以上に、筒井からは人間に対する愛情によく似た深い洞察が見て取れる。私は筒井の人間観が好きだ。

 女性心理についても、若干男性目線な感じはするが、それも含めて説得力がある。幅広い知識を持ちつつ、語り口は控えめで、知性を感じさせる。つまり、どのようなタイプの知識を集めている人間からしても、ある程度の同意が得られるな語り方がされている。一定の説得力がある。作家としての地力、というのだろうか。
 筒井は本当に優れた作家だと思う。

「パプリカにはセラピストの勘で粉川が妻からないがしろにされているように思え、独身女性が素晴らしい既婚男性の妻に対してよく抱くような、あの一種の義憤に駆られた」
 こういう表現が好き。

 それにしても、気持ち悪い男といい男との対比が上手だ。意識しているのかは知らないが、気持ち悪い方の男の表現はかなり雑で、戯画化されているような印象がある。不快ではあるが、度を越した不快にはならないように調整されているような気がする。

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 さらにもう少し読んで。

 ドキドキする。私には緊張感が強すぎる。ページをめくる手が震える。
 本能的な不快感と好奇心が手を繋いでいる。物語や作者に対する嫌悪感は一切感じないのが不思議なところ。それだけ物語の中に没入できているということだろうか。

 おじさんたちがとても素敵だ。成熟した男性、という感じがする。

 私は落ち着いていて信念を持っている成熟した男性を好ましく思う。多分、頭のいい女性はみんなそうだと思う。自制心があって、相手を尊重する基本的な精神的心構えを持っていて、頭がよく、目標を達成したり問題を解決する力も立場もある。綱渡りを無謀だと思わない勇敢さもある。そういう人を見ると、心と体が惹かれるのを感じる。
 と、同時に、そういう人と生涯を共にしたいとは思えない。そういう人は、どうしてもパートナーを「自分を支える人」として見ようとする。ずっと一緒にいる相手のことを大切することは難しい反面、そういう人からは自分は常に一番として見てもらいたいのだ。実際、そう思うのにふさわしいだけの優れた男性なのだから、そういう態度が欠点だとは思わない。多くの女性にとっては、そういう男性が好ましいのだ。
 でも私は、その点では……多分、男性的だ。千葉敦子がそうしているように、短期的なロマンスの相手としては相応しいかもしれないが、生涯ともに苦難を乗り越え、共に喜びを分かち合うなら、もっと別の人がいい。

 多分、そういう女性心理を筒井は理解しているのだろう。天使のような、という形容詞が用いられる時田はまさに、生涯を共にし、ずっと隣で支えることが女性にとってひとつの理想的な人生に思えるような、そういう男性として描かれている。彼がなぜ魅力的なのかは、多くの男性には分からないことだと思う。でもある特定の気質を持った女性からしたら、彼のような純真で頭のよい男性は、男性というより、男の子は、魅力的でたまらないのだ。
 男の子らしい無邪気さや不器用さを持ちつつも、強い責任感を持っていて、優秀。現実を正確に見て取る力がある。多少自堕落で、容姿が醜かったとしても、それでもなお余りある長所、と言えばいいか。


 二章途中。夢から醒められなくなる現象を私は何度も体験している。

 恐ろしい夢から目覚めて、布団の中で「あぁ。やっと終わった」と思っていつも通りの日常を過ごそうとするのだが、どうにも違和感がある。その「いつも通り」が「いつも通りであるように思いたい」ようなのだ。
 実際、自分の起きたベッドも、降りる階段も、使うコップも、見慣れたものであるはずなのに、それを使った記憶が一切思い出せない。現実において、同じことを考えたとしても、昨日それを使った自分のことを想像できるのに、夢の中で捏造された「常識」には、記憶が結びついていないのだ。だから、夢の中で「過去のこと」を思い出そうとすると、必ず「現実における過去」との不一致が明らかになって「これは夢だ」と分かる。
 それで、夢だと分かったとき、そこから醒めるためにどうしようかと考える。考えるだけで目覚めることもあれば、私の無意識が私を目覚めさせないようにしているのか、色々な罠を仕掛けてきたり、ひどく苦しめたりしてくることもある。拷問にあったり、色々な屈辱的なことをされたりすることもある。
 そして、何度も何度も「目覚めた!」と思っても、その世界は夢の世界。何度も何度も繰り返しているうちに、起きるのを諦めて、その夢の中で楽しもうと心がける。すると夢は大人しくなり、そのあとのことは覚えていないが、いつの間にか現実の世界で目を覚ましている。体は軽く、健康だ。夢の中で歯を全部抜かれたり、骨が体から突き出したり、色々とひどい目にあっていたのに対し、現実の私の体は健康そのもので、虫歯ひとつない。
 心臓も落ち着いていて、布団は暖かい。生きていることに安心し、自分の肉体に感謝すると同時に、おそらく私の肉体は傲慢な私の精神におしおきしたかったのだろうと理解し、自分の体を抱きしめ「いつもごめんね」と謝る。

 まぁそんな経験を何度もしてきたわけだが、最近はあまりない。心も体も満たされているのだと思う。


 夢が現実の物体に何らかの作用を引き起こす、というフィクションだが、これは村上春樹の小説でもよく見られることだ。タイトルは覚えていないが、山本弘の作品の中にもそういうのがあった気がする。
 自分の想像や心の中で起こったことが、説明できない何かを引き起こしてほしい、と優れた小説家は願望するものなのかもしれない。
 私自身はそんな経験なんてないので、あくまでフィクションだな、と思う。まぁ、テレパシーや予言のようなものはあり得ると思うし、同時的な……量子もつれみたいな感じで引き起こされる不思議現象に関しては否定することはできないけれど、まぁあまり真面目に考えても仕方のないことだ。そういうことがあったとしても、私はそういうものを利用しようとは思わないし、あってほしいと思うこともない。
 私はそういう不思議現象が一切ない退屈な唯物論的世界においても、私らしい神秘的な生き方をするつもりだし、その点では割り切っている。

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 それにしても人間というのはどうしても周囲に求められる自分の姿を演じようとするものなのだろう。女性がかつて皆女性らしかったのはそうであろうし、現代では若者たちを中心にジェンダーが複雑化しているのも、そういったことから説明がつきそうだ。
 私自身、真面目で頭のいい父から色々教えてもらっていたこともある。自分でも時々思うのだ。父は、母を外見や女らしさで選んだが、本当に父が求めているのは、知性的で……おそらくは、どちらかといえば、男性的な人間であった。それでいて、おそらくは、母性のようなものも求めていた。
 だから、私は無意識的にそういう自分であろうとしたのかもしれない。でもそういうこととは関係なく、ただ自分の個性として想像力と理性が優れていて、そのうえでたくさんの男性的な文章に触れてきた結果こうなったような気もする。

 私は昔から思うのだが「文学少女」の世間的なイメージは、ダサくて、内気で、夢見がちな女の子らしい女の子だが、私が思うに、男性作者が書いた文学ばかり幼少期から読んでいる女は、皮肉的で、同性愛的な、そういう傾向を持つことになると思う。大人びていて、自分の女性性を自覚しつつも軽蔑し、できる限り超然とした自分であろうと心掛ける。自分の中の男性性を強く意識し、それが女性性との間でしっかり均衡を保つようにし、まっすぐな目で人と社会を見ようと心掛けると思う。

 多分その姿は、あまりに女性らしくないので、男性からしたらあまり魅力的ではないと思う。どれだけ外見が優れていても、それは……美しい毛並みの雌の動物を見た時のような、そういう印象になってしまうのではないだろうか。種としてまず異なる、ような……

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 優れた文学者や哲学者は、女性関係に恵まれなかったことが多い。彼らが人格的に優れているのは疑いようもないことであり、普通に考えれば、彼らがずっと独身であり続けるのはおかしなことなのだ。
 それはつまり、彼らにふさわしい、高度な知性を持った女性がいないか、あるいはそういう女性はまた別の知的な男性に惹かれ、もう余っていなかったか、ということなのではないか。

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 思うに……私は、現実生活の私は、ほとんどずっとひとりきりで過ごしているし、人と話すときも、完全にそれ用の人格を使って話している。本音は一切語らない。
 私はただ観察している。彼らに気に入られたいわけじゃない。彼らの望む自分を演じるのは、あくまで一時的なもの。私の私らしさは、誰も見ていないときの私自身を示す。だから……私の世界には、男性も女性もないのだ。だって私の身の回りには、私しかおらず、男性も女性も私の視界には入ってこないのだから。

 性についての事柄が、全部他人事なのだ。

 もちろん、肉体的な周期によってそういう気分になって、色々と考えることはあるし、その時に苦しむことはある。でもそんなのは一時的なものだし、眠くなったり腹が減ったりするのと同じことだから、気にしても仕方がない。
 私の精神は、私の精神として、肉体からは独立して存在しているような気がしなくもない。もちろんそれは錯覚なのだが、しかし、私たち人間の体の中に存在する「考える能力」「感じる能力」がある程度より発達すると、肉体的な反応の影響を受けづらくなり、半ば独立した機能として成立するようになる。

 だから、精神が肉体とは別個のものとして存在する、と錯覚するのは、極めて自然なことなのだ。そう錯覚できるほどに、肉体の反応を肉体の反応として識別し、それを除外した認識の作用や思考の作用のみで、ものを考えられる。そこは発想と直感の世界であり、私たち自身が生きているこの物質的世界の偶然性に近い偶然性の生じる思考なのだ。

 さて、こういう風に思考を進めていくと、時折飛躍して、おそらく読んでいる人がついて行けなくなる瞬間というのがあるのではないかと時々思うのだ。もちろんひとつの演出として、面白いと思う気持ちもある。
 ずっと簡単な話をしていたのに、いつの間にかぐんぐん高度が増して、最後にはついていけなくなる。それが決して見せかけとか、はぐらかしでないことだけは、誰もが感じられる。そこには何かがある。でも難しいので分からない。読んでいる側が、そのように感じるような文章になってしまっているのかもしれない、と思う。
 同時に、もしかすると、こういう技法によって私と同じ景色が見えるようになっている人も、少なからずいるのではないかと思うのだ。
 そういう人はおそらく、私から影響を受けたという事実を率直に受け入れるのが難しいと思うし、もしかすると、恥ずかしく思うかもしれない。それもまた、私を喜ばせる。

 少し話はずれるが、フロイトはニーチェから影響を受けたという事実を恥ずかしく思っていた。私は、フロイトは最後までニーチェの影響を受けたなんて認めなくてよかったと思っている。そんなのは、見る人が見れば分かるし、分かったところで、フロイトの功績が霞むわけではない。そもそも人間はどうあがいたって互いに影響し合うのだから、誰かのおかげだとか、自分の力じゃないとか、そんなこと気にせず「自分が自分が」と進めていっていいのだ。いやもちろん、存命の協力者がいるなら話は変わるが。


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 パプリカ読了。後半ひどいね。失礼かもしれないけど、質の悪い大衆映画を見ているような気分になった。馬鹿馬鹿しくて呆れの混ざった笑いが出てくる。

 あと、私、小説のアクションシーンあんまり好きじゃないんだなぁって自覚した。後半に行くにつれ駆け足になっていくのは嫌いじゃないし、ダイナミックなシーンが増えるのはいいんだけど……何というか、私が女だからか知らないけど、大げさすぎるシーンはこう、受け付けない。
 「なんじゃそりゃ」って思っちゃう。

 ただ、全体通して心理描写は優れていたし、夢についての洞察もよく描かれていた。それだけに、後半の残念感がすごい。
 前半中盤、色々と伏線を引いてるみたいだったから、全部まとまっていくのかなと思ったけど、これ完全に……大まかに流れだけ決めて、行き当たりばったりで書いたやつ。こういうのが好きな人もいると思うけど、私はイマイチ。

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 性的なシーンが多すぎることと、主人公が何というか、エッチすぎる。「それでいいのかよ……」って困惑する。
 それぞれの男性も、途中までは丁寧に描かれていて、魅力もあって、好きだった。でも終盤になるにつれ、わけわからなくなっていったし、もうめちゃくちゃ。積み上げてきたもの全部ぶち壊して無理やり物語終わらせた感じ。
 
 いや、あんまり悪口言いたくないんだけどね……

 あと、なんでノーベル賞欲しがってるのかもよく分からなかった。ノーベル賞、なぁ。
 あぁいう名誉って、正直よく分からないんだよね。オリンピックで金メダルとるみたいなものなんだろうなぁとは思うけど……それって単なる結果だよねって思ってしまう。
 でも「そういう目標があるから大変な苦労を乗り越えられたんだ」ってな人がいて、その賞自体に価値と国家的な名誉がかかっているから、研究に金を出すことができるって考えれば、まぁそういうのが権威を持って、優秀な人々にとって魅力に思えるのも、意味があるのかなぁとは思う。

 にしても、千年とか二千年とか経って、ノーベル賞の価値が落ちたり、また別の賞の方が注目されるようになってきたら、なんか現代のこういう名誉って「なんか変なのぉ」って思われるようになると思うんだ。
 中世の、聖人認定のアレとか、古代ギリシャの詩人コンテストとか、そんな風に。

 いやまぁそれを言い始めたら文化的なアレは全部奇妙なものなんだけど、でもその最たるものだよね、ノーベル賞って。オリンピックと並んで、現代では最高峰の名誉なんだから。

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 まぁこの本は、人に勧めたくないな。

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 さて……読書日記続けようか考えてんだけど、まぁ、決めないことにする。投稿したくなったら投稿するし、しないならしないでよし。
 どうせ読書日記は投稿しなくても自分用に書き続けるし、なぁ。

 思ったより中身がなかったから、また別の作品読み始められそう。
 多読よくないけど、最近読書が楽しくて、どんどん読んじゃう。

 それにしても、古典とか海外の翻訳物ばっかり読んでると、日本人作家が書いた比較的最近の作品は本当に読みやすく感じるなぁ。お腹空いた。

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