空虚な生

 自分の人生が、ではなく、なんだか社会全体が、空虚な感じがする。
 目的を持っていない。自分たちが何のために生きているのかが定かじゃない。

 たとえば「人は幸せになるために生きている」というような見方をした場合においても「私たちはもうすでに幸せであるし、私個人が苦労せずともそれが維持されている状態にある」という状況にある場合、私たちはいったい何をすればいいのだろう? ただ呼吸をしているだけで、生きていると言えるのだろうか? その時私たちの生の目的は一切なくなってしまうのだろうか?
 せっかく目指していた幸せが手に入ったとして、私たちはそこで呆然とするのだろうか。もしそうなら、そもそも幸せじゃない状態であったとしても、何のために幸せなるものを追い求めなくてはならないのだろうか。

 私たちの生が、単にひとつの現象であるならば、どうして私たちはこんなにも考え、悩み、苦しむしかない機械なのであろうか。
 なぜ自分や他者の空虚さに、耐えられないような性質を生まれながらにして持たなくてはならなかったのだろうか。ただ死ぬことよりも、何も行動できないまま、何の行動もできない状況に陥ることの方が、私たちにとってずっと苦しく感じる。
 空虚な生が、意味のある死よりもずっと耐え難い。時にその空虚な生を終わらせること自体も、一種の意味であるとさえ、考えたくなるほどだ。

 空虚な生。私たちは自分の周りにどれだけのものと人を集めて、自分の豊さや繁栄を誇ったとしても、結局は身ひとつで、それらを楽しみ微睡む一個の人間。どんな幸せも、一時の陶酔に過ぎないのであれば、あるいは永続的な陶酔であったとしても、それに一体何の意味があるだろう? 酒を飲んで愉快そうに過ごしている人間に、いったい何の価値があるだろう? そこに空虚以外の何が残っているだろう?

 社会全体がその空虚さの中にあるのではないか、と思う。何もない空間の中で、ぼおぉおおっと、気味の悪い音を立てている。私はそれが、社会の音であると思っている。誰もしゃべっていないのに耳が壊れるかと思うほどの騒音。沈黙と喧騒。その両極端。豚小屋のような電車。

 私たちは、正直に言って、生きる意味を見失っている。何のために生きているのかが分からない。ずっと分からないままでいる。分からないまま、日々を必死に生きることによって誤魔化しているし、誤魔化せているうちは、なんだか充実した気持ちになることができる。
 でもふと、何もやることがなくなったとき、楽しいはずのことが楽しく感じられなかった時、何らかの現実的な衝撃で、ずっと私たちを微睡ませてきた酒気が消えた時、私たちは空虚さに呆然とする。そして、またあの酔いが来るのを待つ。私たちを楽しませたり、苦労させたりしてくれる外部的な何かが来るのをじっと待ち、それが来たら、愚痴を言いながら喜んでその中に飛び込んでいく。その中にいるうちは、空虚さを感じずに済むから。空しくならずに済むから。怖がらずにいられるから。立派な自分を演じられるから。他者から蔑まれない自分でいられるから。他者から愛される自分でいられるから。

 誰からも愛されない自分。誰もいない空間で、ひとりぽつんと立っている自分。でも私たち人間の正体は、常にそれだろう。それ以外はないだろう。誰もが、そういう瞬間を持っている。そしてそういう瞬間が嫌で、逃げ出した人間が、どれだけ人に囲まれて、面白おかしく暮らしたところで、結局は同じように孤独から逃げ出した人間同士が互いに慰めあっているだけじゃないか。嫉妬し合う瞬間ですら、その嫉妬は寂しさの裏返しじゃないのか。まんざらでもない感情なんじゃないか?
 結局は、ひとりでいることに耐えられないから……
 自らの空虚さに耐えられないから……


 もし私たちに生きる意味があったならば。愛すべき何かがあったならば。その時は、きっと生は意味あるものとして輝いていたことだろう。
 神々を信じることができていれば、神々に捧げるものを作ることに、至上の喜びがあったことだろう。その喜びは決して過去にならず、永遠にそこにとどまったまま、私たちの空虚を満たしてくれていたことだろう。
 あるいは、私たちが空虚だったとしても、神々が空虚でないのならば、私たちがそれに苦しむことなどなかったことだろう。私たちが空虚であるべしと定められそこにあるなら、私たちは私たちの空虚さに呵責を感じる必要などなかったことだろう。神々の世界という、中身ある世界に向かう気持ちだけを己の中身として肯定することができたことだろう。

 私たちには何もないのだ。何もない。何もないということが、こんなにも苦しくて悲しい。

 向かう方向がない。求めるべきものがない。愛すべきものも失ってしまった。
 空虚だ。何もかもが、空虚だ。

 私はこの時代に生きる人たちと関わっても、空虚以外何も感じない。彼らの喜びは、酒の喜びとそう変わらないように感じる。ただ認識を微睡ませて、感情に浸っているだけ。しかもそれは、誰かの生活を成り立たせるための、愛のない、実利的な作品的作品。テレビも、ネットも、ゲームも、結局楽しむためだけの楽しみなんて、空しいだけじゃないか。

 目標だとか夢だとか、そういうものを信じて突き進もうとしている人間たちのことも、私にはどうにも理解できない。なぜそこまで盲目になれるのか分からないし、彼らが信じているものが何なのかもよく分からない。そこには一種の陶酔的な喜びがあるのは理解できる。それは走る喜びだ。私たちは、長い時間走っていると、精神が微睡み、目標のために体全体が協力し、調和しようと試みているのを感じている。そういう喜びなら理解できる。でもそれは、中身あるものだろうか? むしろそれを中身があると感じてしまうことにこそ、私たちの生の空虚さがあるのではあるまいか?
 もし単に、目標や夢が、自らの心身の成長のため、何らかの空虚さを埋めるための何かを手に入れるための条件であるならば、それを否定する理由は見当たらない。

 でも正直に言ってしまえば、人々から尊敬され、成功者として名を列せられる彼らの中にさえ、私は空虚さを感じる。彼らの目の中に、己自身への逃避が見て取れる。むしろ彼らの成功という事実が、私にこう語っているかのように思えてくる。
「私が成功したのは、私が成功しなくてはならなかったからだ。成功しなくては、私は私自身の空虚さや惨めさに、耐えられなかったからだ」
 そしてそれに対して「ならばあなたは、成功することによって空虚さを克服できたのですね?」と問うと、彼らはこう答える。
「いや、そうではないから、私は死ぬまでずっと成功し続けなくてはならないのだ。あるいは、失敗でもいい。失敗もまた、私を空虚さから遠ざけてくれるから……」

 これは私の妄想だろうか? 妄想であれば、どれだけいいか。だが、彼らの言葉はどれだけ聞いても、空虚しか見いだせない。決定的に「なぜ」が欠けている。
 彼らは彼ら自身を確かに肯定している。なぜならば、彼らは彼らの過去が示した自分を肯定する条件をクリアしているからだ。でもどうだ? それで彼らは彼ら自身の空虚さを克服したことになるだろうか? いつまで経っても演技的で、表面的で、何よりも、空虚だ。

 彼らが誇りとしているのは、己自身の進む道を疑ったことがないということだ。彼ら自身が、彼ら自身のことを正面から否定したことがないということだ。彼ら自身が、周りの人間から生を謳歌しているように見られていることだ。あるいは、彼ら自身が、自分自身のことを生を謳歌しているように認識していることだ。
 ただそれが、純粋で、精緻で、深刻な見方をしたうえでのことであれば、どれだけよかったか。
 実際には、自分の精神を微睡ませ、答えたくない問から目を背け、ただ目の前のことをクリアするために行動した結果、そうであることばかりだ。

 彼らは答えない。答えられないからなのだ。
 彼らは理解できない。理解するのが怖いからなのだ。

 自分たちの空虚さのことを知らずにいること。
「知らないでいられたら、それは実際にないのと同じだ」
 彼らはそう考えたがるが、実際にはそうではない。私たちが見るからそこにものが存在するのではなく、すでに存在しているものを、私たちは見るのだ。
 
 たとえその人が突然の死によってその空虚さから逃げ切ることができたとしても、それで彼の生に全く空虚がなかったことになるだろうか? いや、むしろその、空虚がないということ自体が……つまり、彼自身の中に、一切の自己自身への絶望や悩みが欠如していたこと自体に、私たちはその人間の空虚さを見るのではないか?
 私たちの生がどこまでも空虚であること。どこまでも、中身を伴っていないこと。美しさや、愛情が欠如していること。何もかもが見せかけであること。見せかけであることに気づけないこと。他人を見せかけの中に閉じ込めて「ほら、あなたはやっぱり幸せなの」と言い聞かせること。

 そういうことが、私にはどこまでも、空虚で、くだらなくて、どうでもいいことにしか思えない。

 言い換えれば、悪趣味で、関わり合いになりたくないことだとしか思えない。この時代はあまりにも空虚で、その中で生きているだけで、見たくもないものが目に入ってくるし、聞きたくない言葉を聞かなくてはならなくなる。

 終わりのない戦いに何の価値があるだろう? 終わりのない平和にも、だ。
 私たちの生はそれだけではあまりにも空虚で、何らかの意味を必要としている。何らかの、絶対的な理由を欲している。絶対的な愛情。絶対的な意志。絶対的な欲望。絶対的な目標。絶対的な理想。絶対的な運命。なんでもいい。ただ自分自身が絶対的に従うべき何かがない、ということが、どこまでも苦しくて、空しいのだ。

 ただ生が、何の意味もなく、為すべきことを為さないまま終わってしまうということほど恐ろしいことはない。自分の空虚を怖がり、目を逸らし、それを感じないように動くこと自体が、実際に自分の人生を空虚の中で終えてしまうことに直結する。私たちが恐れていた事態が、私たちが恐れているがゆえに、引き起こされてしまう。空虚さへの逃避が、空虚な人生を作り出してしまう。

 あぁしかし、空虚さをどれだけ見続けてたところで、それに疲れ果て、何の行動もできず人生が終わってしまうのならば、それもまたひとつの空虚なのだ。

 意味付けが必要だ。あるいは、何よりも強い命令を自分の中に見出さなくてはならない。
 生きると決めたのならば、どのように生きるのかも決めなくてはならない。
 目標の欠如、意志の欠如、趣味の欠如。何らかの欠如が己の内にあるということが、私を空虚な感情にいざなう。それについて考えていないということ。認識を持っていないということ。理解ができていないということ。価値を見出せないということ。意味があることだと思えないということ。

 あまりにも巨大な空虚が、私という小さな存在を押しつぶそうとしている。

 耐え難い生の無意味さ。


 他者の中の空虚さから目を背け、自分自身の生の無意味さに向き合い続けた時、そこで立ち現われてくるのは、最初に見たのとはまた違った、他者の瞳に映る空虚なのだ。
 私が沈黙したとき、彼は彼自身の空虚を悟る。私はそこに、一種の喜びを感じた。空虚であるのは、私だけではなかった。
 他の人間が空虚であることなど、自分の空虚さの中に落ち込んでいた時、私は完全に忘れていたのだ。
 私が私自身の無意味さの中でもがいた結果、かろうじて掴まえたほんの一筋の光は、ほとんどの人には届かなかった。それほどまでに、空虚さというものが、人間の生の無意味さというものが、普遍的であるということに気づいたとき、私は自分にまだ可能性が残されていることを悟った。

 何もかもが、まだまだ足りないのだ。考えることも、動くことも。私は私自身の空虚さに飽きてきている。
 だから、意味を与えないといけない。意味があったのだと思わないといけない。意味があったのだと、思わせないといけない。目のいい私は、見せかけの結果は全部見せかけであると見抜く。私自身の感情ですら、それが一時的なものであるならば、一時的なものであると看破する。その快楽が単に肉体的な反応に過ぎないならば、そうであるものとして反射的に軽蔑する。誰もが感じられる、ありふれた、くだらない一瞬の快楽に、いったい何の価値があるだろうか? それは私自身の健康の役には立つが、私はもうすでに健康であるから、そんなのはほどほどでいい。健康を維持するのに十分なだけ酒を飲んだなら、それ以上はいらない。娯楽は常に、嗜むくらいでちょうどいい。

 そんな私の認識が、理性が、納得をせざるを得ないような絶対的な意味が欲しい。真理、あるいは神が欲しい。それがないのならば、それを作り出さなくてはならない。自らが崇拝できるような何かを、自分自身の中から取り出すか、あるいはどこかから盗んできて、仕上げなくてはならない。自分の生の意味を、はっきりとした結果として、どこかに表現しなくてはならない。
 そうでなくては、人生はあまりにも空虚で、耐え難い。私は自分の人生に耐え難い。

 しかしどのような試みも結局のところ、その空虚の内に没してしまうのではないか? あるいは、その空虚からの逃避に没してしまうのではないか?
 そうならないためには……私は、空虚そのものになる必要にさえ、迫られているのではないか?


「どうしてそんなに空虚を憎んでいるのですか?」

「何?」

「あなたはかつてあんなにも、空虚を愛していたではないですか」

「何の話?」

「あなたは幸せを愛していた。あなたは、あの溢れんばかりの太陽を、何の意味もないしゃぼん玉を、子供たちの笑い声を、あんなにも愛していたのに……」

「私はなぜ、愛を拒んでしまうのだろう。愛を拒み、何らかの……意味のあるものを求めてしまうのだろう?」

「あなたが最も満たされていた時。あなたがもっとも、疑念を忘れられていた時。あなたがもっとも、空虚から遠く隔たれた場所にいた時。それはあなたが、世界は美しくて素晴らしくて、そこに存在しているだけでいいのだと信じられた時ではなかったのですか? あなたがいてもいなくても変わらないということが、何よりも素晴らしい祝福のように思えた瞬間ではなかったのですか? あなたの努力や欲望なんてものが必要なく、そこにあるべきものがあり、美しく完全な形でそこにあるということが、何よりも嬉しくて、愛おしかったのではないですか? どうしてあなたは忘れてしまうのですか……」

「私は分からないんだ。それを聞いてなお、私はあなたの言うことが、まさに空虚さそのものなのではないかと思わずにいられないのだ。しかし……しかし、実際にあなたの言うような景色を私が見たならば、私はその光景をあなたの言うように、絶対的に肯定せずにいられない。もしその感覚すべてが嘘であったとしても、嘘でいいとさえ思える。どのようなことが真実であったとしても、現実であったとしても、私はそれでもいいとさえ思える。私がそれでいいと思えたならば、心の底からの感動と、絶対的な理性の同意がそこにあるならば、意味など必要はないのだと、私は確かに知っている……」

「いつかあなたのその矛盾が解かれる日が来るといいね」

「剣で断ち切るしかないのかも」

「あなたに英雄的な生き方やその意味は似合わないよ。あなたはどこまでも、見る人でいるべきだ。目撃者であるべきだ。観照者であるべきだ」

「でもその生き方は、空虚だ」

「あなたが選ぶべきは、空虚でない意味のある生ではなくて、あなたが愛すべき空虚な生なのではないの? どれだけ空虚であっても、愛さずにいられないような、そんなかわいらしい生なのではないの?」

「あぁ苦しみよ。私の元から立ち去ってくれ。そうしてまた、私が忘れた時に戻ってきてくれ。その時は、慌ててあなたを歓迎する準備をしよう。
 今はただ、空虚な幸せの中で、体を休ませようと思うのだ。またあなたと踊るために……」


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