散々悪く言った後に

 楽しい楽しい自己省察の時間!

 散々悪く言った後に「別にいいんだけどね」とすました顔で言う人を、私はよく見かける。私自身も、そういう話し方をすることがある。

 なぜこういう言い方をするのか、内省の意味も兼ねて少し分析してみようと思う。

例:国家主義的な主張を押し付けてくる人に対して
「なんでもかんでも国益を優先して考えるのは……(うんぬんかんぬん)だから、ほんとに頭悪いと思う。まぁ別に、そういう人がいてもいいと思うんだけどね」

 私は日常生活について、こういう言い方をすることがある。
 自分が嫌だと思うことを理解のある人に話すとき、「別にいいんだけど」と付け足すことが多いのだ。
 それはなぜか。

1.他者に対して寛容な自分をアピールしたい。(他者の思想やマナーに厳しい人間であると思われると、人が自分を避けるようになるから、それを防ぐために)
2.自分(あるいは相手)の愚痴をそこで終わりにしたい。話を変える口実を作りたい。(つまり「別にいいけど」というのは「その話はもういい」という意味。相手からの返答を拒絶して、もっと建設的で楽しい話をしよう、という押しつけ)
3.実生活上、自分が反感を持っている人間に対して笑顔で接しなくてはいけないという立場にある人は多い。そういう人が自分に言い聞かせている場合。(それがどれだけ自分にとって不愉快でも、それを「悪」だと決めつけると、自分自身に不利益が被ることが多々ある。そのため「不愉快だけど、それくらいは別にいい」「許容範囲内だ」と思う必要があるのだ)
(これは特に、友人の陰口をよく言う人間によくみられる心理である。「俺はあいつのこういうところが嫌だ。でも、それくらいのことで奴と関係を切りたいとは思わない。あいつには他にいいところがたくさんあるから、それくらいは許容する」という心理)


 私はなぜか知らないけれど、昔から人の愚痴を聞く機会が多かった。普段優しくて、人の悪口を言わないような人でも、追いつめられると、いくらでも出てくる。
 私は許容する。私自身は、できるだけそのような人間でありたくないけれど、人間である以上は仕方がない。私にもそういうときがある。人間は弱いのだ。

 そして「本当はこんなことを言いたくないけれど、これ以上溜め込むと爆発してしまいそうだから」という理由で愚痴を言う人が「別にいいんだけど」と口にすることは、とても悲しいことだけれど、それは同時に仕方ないことであるような気がしている。
 それは、利己的な理由だけでなく、周りの人間への配慮のためにそうなっていることも多いからだ。

 誰しも、というわけではないが攻撃性を隠して生活をしている人はとても多い。
 私はあまり攻撃性を肯定したくない。私自身が意味もなく攻撃されたくはないからだ。しかし、私自身に攻撃性が強く宿っている以上、私はそれを肯定するしかないのだ。私は私を肯定するしかない。
 私は、批判も攻撃も、愚痴も悪口も、基本的に肯定する。ただ、何に対して攻撃するかは選ぶべきだし、自分の感情や善悪の観念の赴くまま、ものごとや人を悪く言うのは、下品だと思う。


 頭が悪い人間の悪口は、醜いが、大した影響力もないので、私は別にいいと思う。

 ただ頭のいい人間がそれをすると、説得力を持った理屈とともに善悪を語るので、厄介なことになりがちだ。その人間が有能であるがゆえに、ただの感情論が論理で武装してやってくるのだ。そして、それが広がり、大きな憎しみと排他主義が生まれる。

 あるイギリス人は「知は力なり」と自信満々に語った。
 そして歴史は忠告する。
「力を持つ者ほど、その力の使い方には気を付けるべきだ」と。

 私は、攻撃性を内に秘めながら言葉の刃を鞘に納める人を、それほど悪く思わない。たとえその音が耳障りでも、仕方がないと思う。

 私は、許していたい。同時に、許されていたい。色んな言い方をしたけれど、本当はただそれだけなのかもしれない。
 「よい」も「わるい」も言われたくないのかもしれない。そうだ。言葉は自分に返ってくる。特に私の場合は。

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