あぁそれが自分の本性なんだな

 久々に自分の攻撃性が自分以外の誰かに向けられたな、と思った。
 本当はいつもこうしたいと思っている。相手のことを決めつけて、理屈でぼこぼこにする。一方的に、自分の言いたいことを言い切ってしまう。
 別に、言い負かしてやりたいわけではない。ただ、相手に……自分の中の、どうしようもない「分からない」を押し付けたいのだ。いやそれだけじゃない。きっと、私自身の苦しみと同程度のものを、相手にも感じて欲しいのだ。
 私が常日頃晒されている批判に、自分自身に対する批判に、他の人も一度晒されてみればいいと思うのだ。

 この人は鈍感だから傷つかないだろうと思った。どれだけ言われても、どうせ大して感じないし、もし感じるのなら、万々歳だ。私はこの人のやり口が気に入らないし、もしそれが変わるなら、素直に喜ぶことだろう。

 害したいと思っているわけではない。ただ、私は自分の感情を、一時的に放出させただけだ。でも逆に言えば、それが、いつも我慢している私の本性だ。正体だ。
 私は上品な人間なんかじゃない。上品なふりをしている人間だ。

 私は優しい人間なんかじゃない。優しいふりをしている人間だ。


 自分の人格がどうしようもなく破綻している……と考えたくなるが、冷静に考えると、そういうわけではない。私も他の人間と同じ、不安定で、馬鹿げた、利己的な、くだらない、取るに足らない、軽蔑すべき「普通の人間」でしかないだけなのだ。ある意味では、彼女の言っていることはそのまま当たっている。というか、その人は間違っていることを言っているわけではない。ただ、私という人間に何を求めているのか分からないから、腹が立っただけだ。

 少しは好意もあった。ある意味では、その精神の頑強さには、敬意を払っていた。つまり、ひどいことを言われても、大して傷つかないという長所に。その原因が、自分自身の殻にこもりっきりだからなのか、単に外部の心に対する感受性が低いからなのか、自分の都合の悪いことは全て認識から消えてしまう都合のいい思考形式だからなのかは分からない。ただ、その人がなんとも思っていないということだけは、理解できてしまうから。その人が、私を誤解したまま理解したつもりになっているということだけは、理解できてしまうから……


 語っていて思った。私は自分より頭のいい人間、繊細な人間を求めているのだと思っていたが、実のところ、そうではなくて、私は私より自分勝手で、鈍感で、くだらない人間を求めているのかもしれない。私が心の底から軽蔑していて、どれだけ言葉で殴ってもなんとも思わない、殴られているとすら感じられないようなでくの坊を、私は求めているのかもしれない。
 私のストレスや憎しみや悲しみを全て受け入れることも拒絶することもせず、ただ別のどうでもいいものとして受け取り、どうでもいいものとして返し、いかにその人自身の感じているそれに価値があるか懲りずにずっと主張することのできる、そういう愚かさの塊みたいな人間を、私は欲しているのかもしれない。

 なぜか気持ちがいいのだ。
 なぜか不愉快になれないのだ。


 もし昔の私なら、誰かを自分の欲望を満たすための道具にすることに拒否反応を示し、すぐさま謝罪するなり、なかったことにしようとするなりしていたかもしれない。でも私は、成長した。自分の醜さや低さをそっくりそのまま自分の中に受け入れ、認められるほどには、成長した。

 だから今、礼儀を欠いた行いをした自分自身が、その自由さに、その無意味さに、喜んでいることを受け入れている。

 礼儀のない人間に礼儀を払う理由はない、のだとしたら? 攻撃されていることに気づかない人間に、害のない範囲で攻撃することは、罪ではない、のだとしたら? 自分の言いたいことを、ただ感情のままに吐き散らかしても、実は誰も傷つかないのだとしたら? いや違う。特定の相手を「傷つかない」と決めつけて、そういうものとして取り扱うことが、正当化されるのだとしたら?
 気分が悪いとは思わなくなった。私はきっと根が悪人なのだろう。誰かに暴力を振るいたくてたまらない人間なのだろう。誰かを攻撃したくて仕方のない人間なのだろう。

 反撃してこない相手を徹底的にいたぶる行為。私は、誰かが傷ついているのを見ると反射的に不快に感じてしまう、厄介な共感性を備えて産まれてきたが、もしそれがなかったのだとしたら、私はきっと……


 そういう物語を書こう。あの人には感謝しなくてはならない。
 私は残酷な人間でもありたい。

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