一番大切な存在

 誰かにとって一番大切な存在になりたいと思った。
 それはきっと、私が今までの人生で誰かの一番大切な存在になれたことがなかったからだと思う。

 私の両親は自分勝手な人たちだった。自分が誰かの一番であることばかり考えて、自分にとって誰が一番かということに一切の考えが及ばない人だった。
 私は娘としては愛されていたけれど、私として愛されていたわけではなかった。

 そういう人生を歩んできたから、私はこの先、誰かにとっての一番になりたかったし、その人を私にとっての一番にしたかった。

「僕は君のそういう考えは間違っていると思う」
 私たちは酔っていた。一緒に来ていた友達は、気を遣ってかみんないつの間にか出て行っていた。
 彼の家でふたりきり。私は彼のことを信頼していたし、ふたりきりになっても彼はいつも通りだった。
「なんで?」
「君は君の子供に、君と同じ思いをさせるつもりなのか」
 彼は私の目をまっすぐ見つめていた。その瞳は潤んでいて、唇は震えていた。なぜ彼がそのことについてそんなに真剣になっているのかは分からなかったけれど、でもその……その真剣な顔つきは、かっこよかった。
「そんな風に、大人になんてなれないよ。親から愛されなかった私が、どうやって子供を愛したらいいの? そんなの、分かんないよ」
「君は男女の愛も分かっていないくせに、それを追い求めることは正当化しているじゃないか。分からない、知らないは理由にならない」
「水木君は、両親から愛されて育ったんだね」
 だから、そんなことが言える。私の気持ちなんて、分かりもしないくせに……
「俺には四人兄弟がいる。そして、俺の両親はその五人を分け隔てなく愛した。俺は両親を誇りに思っているし、俺もいつか子供を持つことになったら、両親と同じように我が子に接したいと思っている。自分にできる限り最大の愛情をもって、接したい。誰が一番とか、そんなことはどうでもいいし、そもそも一番とか二番とか、そういう考えは、何かを犠牲にするときの言い訳のための考え方だ。俺は『あれかこれか』よりも『あれもこれも』と、多くを追い求める人生を歩みたい。何も犠牲にしたくないし、犠牲にするしかないときには、納得なんてする必要なく、誰よりも理不尽を苦しんでいたいんだ」
「だからそれは! それは、君が多くを与えられて育ったから、そう思えるだけなんだよ。私には、その考えの正しさなんて理解できないし、理解したくない……あまりに悲しいことや寂しいことが多すぎたんだよ……」
 私は涙を流していたけれど、嗚咽を堪えていた。悲しいから悔しいからとここで言葉を繋ぐのを諦めて、ただ慰めの言葉を待っていては、それは彼の言っていることの正しさを認めてしまうような気がしたから。
 私は今まで、自分なりに精一杯生きてきた。涙を堪えて、ひとりきりで何とかやっていこうとしてきた。誰からも大切にされなかったから、誰よりも頑張らなくちゃいけなかった。そうすることによって、誰かの一番になりたかったし、一番になろうとしてきた。
 認めたくはないけれど……私はきっと、この人が欲しいのだ。だから、私は泣きながら、彼を睨んだ。彼の暴力的な善意を、正しさを、私は絶対に認められないし、認めたくない。だからこそ、逃げずに、立ち向かいたい。私の正しさを、彼に認めさせてやる。彼に……私という人間の価値を認めさせてやる。
「俺は君がこれまでどんな気持ちで生きてきたかなんて知らないし、知りたくもない。君だってそうだろう。君は、俺の人生を一言で言い表そうとしたんだから。『両親から愛されて育った』なんて、単純で幸せな言葉で、俺の人生を片付けようとした。『多くを与えられて育った』なんて、まるで理想的な家庭で育ったみたいな言い方で、俺の人生を片付けようとした。
 俺はこれまで人に言えないような罪を犯したこともあるし、その罪を許してもらうために自分の全てを投げ出したこともある。誰かを愛したくても愛せなかったこともあるし、ある人を助けようとしたのに、その人は俺の手を拒んで、あえて厳しい道を今もひとりで歩み続けている。俺は君よりずっと多くのものを見て、たくさんのことを経験してきている。それだけは、確かだと思っている」
 その言葉の強さとは裏腹に、彼は急にどこか自信なさげな面持ちに変わった。私はそれで、開きかけた口を閉じた。そして一度口を閉じたら、自分が何を言おうとしていたのか分からなくなった。
「いや、それは俺がそう思い込んでいるだけなのかもしれない。言葉は無力だ。俺の方が、君の人生を単純に捉えようとしていたのかもしれない」
 そう言って、彼は私が答える前に「ごめん」と言って頭を下げた。
「俺は多分、酔った勢いで君に失礼なことを言った」
「いや、私の方こそ、ごめん」
 反射的に、私も謝る。そもそも喧嘩をしていたわけではない。でもいつの間にか、激しく口論していた。負けたくない、と思っていた。でもいったい、何に?

 しばらく静かにお互い自分のペースで酒を飲んでいた。私の頭はぼんやりしていたが、彼はずっと考え続けていたのだと思う。ふと彼が口を開いたとき、自分の酔いが覚めていくような感覚になった。
「多分……俺の方が、色々な人を知っているのは正しいと思う。でも多分、君は君自身の体験を、俺よりも深く持っている。俺は多分、自分が感じてきたことを自分の中で飲み干す前に、他の人に話したり、その人と相談したり、君の言葉を借りれば『愛されて』きた。
 自分の問題を、自分ひとりで解決しなくてはいけない、と真剣に悩んだことがない。だから、誰かひとりに他の誰よりも愛されなくてはならない、という感覚が分からない。誰かひとりを他の誰よりも愛さなくてはならない、という感覚も。俺は多くの人から愛されてきたし、多くの人を愛してきた。そしてこの生き方は、多分譲れない」
 私は、もう一杯酒を飲む。考えが、少しずつ形になっていくのを感じた。今度は、勝ち負けとか、認めるとか認めないとか、そんなことはどうでもよかった。私は私のことが知りたかった。彼自身が、今彼自身のために話しているように。
「私が大切にされてきたのは、娘としての私だった。女としての私だった。私としての私ではなかった。私は私である必要がなかった。ただ大人しく、問題なく、当たり障りのないように生きていて欲しいと思われて生きてきたし、そのように生きているうちは『愛されて』きた。でもそれが嫌で、私はずっと昔から私自身を愛してほしかった。わがままで、どうしようもなくて、周囲の人ひとりひとりにちゃんと目を向けることのできない、この弱くて幼い私を。
 君の方が大人で、正しいのは、私にだって分かるよ。でもやっぱり、私は君に私を理解してほしい。私を尊重してほしい。他の人よりも、もっと……」
 彼は返事をしなかった。言ったあと、それはほとんど愛の告白であるような気がしたけれど、もうそんなことはどうでもよかった。
 こんなにも自分の心をさらけ出したのは生まれて初めてで、色々と混乱していた。それはきっと、彼も同じだったと思う。


 あの夜の出来事は今でもさっき起こったことかのように鮮明に思い出せる。あれ以来彼といい雰囲気になることはなく、私は別の人と結婚して、子供を産んだ。
 今ならはっきりと言える。正しかったのは、彼の方だった。大人だったのは、彼の方だった。私が彼に、相応しくなかったのだ。
 もしあの時、私がもっと大人になって、彼から多くを学ばせてもらおうという態度だったなら……と何度も考えた。でもきっと、そうやって無理して大人ぶったって、きっとうまくいかなかったことだろう。
 実際の私がそうしたように、もっと時間をかけて、ひとりで悩んで、そして、納得出せる答えを自分で見つけるしかなかったのだろう。

 今彼はどうしているだろうか。私よりもっといい女性と結婚して、子供を持っているのだろうか。その子供を、彼の言うように、分け隔てなく愛しているのだろうか。そうであってほしいと思う。

 私がはじめて産んだ子供が双子であったというのは、ひとつの運命であるように感じる。いや、恩寵と言った方が正しいのだろう。

 私は、夫と我が子らの両方を愛することにした。あれかこれかではなく、あれもこれも。
 私が両親からひとりの人間として愛されなかったというのなら、私はこのふたりを、私が愛されたかった分まで愛そうと思う。そうすることだけが、私自身にとっての、幼かった両親への赦しになるような気がするのだ。

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