善悪と皮膚は似ている
私たちはもうすでに「一個の善悪」「一個の道徳」に耐えられなくなっている。
「これこれが善というものだ」
「私たちは道徳的にこう考えなくてはならない」
そういう言葉に対して、いちいち「本当にそうなのだろうか?」と疑ってかかってしまう。
私たちはもうすでにそういう生き物になっている。
ずっと同じ服を着続けることができないことに気が付いたのだ。
しかし服を脱いで裸になると、寒い。同じように、善悪のない世界は私たちにとって、恐ろしすぎる。いや、恐ろしいというより……つまらないという方が正しいかもしれない。
善悪がないと、私たちは退屈する。
「善も悪も、この世にはないのだ。それは全部他の人間がねつ造したもので、私たちは今までずっと押し付けられたものを信じてきただけなのだ……」
そんな生き方は、つまらないのだ。その日暮らしで、毎日楽しい事だけしかしない。そんな生き方は、私たちには相応しくない。
だから私たちは、自ら善悪を新しく作り出さなくてはならない。私たちにとっての善悪を、今ここで、産み出し続けなくてはならない。
「私が今ここに在ること。これは善か?」
然り! 最初はこういう簡単なところからでいい。
「人を助け、見返りを求めないことは善か?」
然り! しかしそれは義務ではない。人助けは常に、気まぐれでなくてはならない。それが私の善だ。
「人を助けず見殺しにすることは悪か?」
否! 私は他者より私自身を優先する。もし助けられる人が目の前にいても、私の気持ちがそこに向かわないのならば、私はそれをしっかり認識したうえで見殺しにする。それが私の善だ。
しかし実際はどうだ? 私の新しい善悪は、現実の小さな出来事の前に、すぐに崩れ去ってしまう。
そのたびに私はまた、善悪のこと悩む。
私はどうあるべきか。どのように生きなくてはならないか。
私は、古い皮膚を脱ぎ捨てるように、自分の作り出した規範を、ルールを、善悪、切り捨てていく。
そして新しく、まだ色も薄い善悪を掲げ、それに従って生きてみる。
ずっと、それを繰り返すのだろう。これが、善悪の代謝というやつなのだ。
完璧な、完成された善悪の在り方など存在しない。しかし、善悪を無用なものとして取り扱うことも、私たち人間にはできない。相応しくない。
善悪は皮膚に似ている。いつも新しく作り替えられていて、私たちの体と心を守ってくれている。
日々、新しい善悪を。私の体に合った善悪を。
私は柔らかくて美しい善悪を好む。私が女性であるからだ。
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