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りっちゃん賛美

 彼女のことをどう表現していいものか、正直僕は困っている。いやもちろん、これは、彼女の話だ。
 僕は生まれてこの方ろくに文章を書いてこなかった人間なのだが(実は、中学生のころに友達に影響されて短い小説を何本か書いたことはあるが……まぁその話はあまりしたくないので、数に入れないことにしよう)最近はじめて、書きたいと思える題材と出会えたから……いや違うな。書かなくちゃいけないと思ったから、こうして書いている。

 僕の文章はきっと拙いし、分かりづらいと思う。国語の教科書に載っているような分かりやすくてていねいな文章を書きたいなぁと思うけれど、しょせんはどこにでもいる普通の高校生。あんまりにも下手くそで、読んでいる人がうんざりして投げ出してしまうかもしれない。そう想像すると僕は……どうにもこの先どういう風に書けばいいのかは分からないのだけれど、他でもないこの物語(物語と言っていいのか分からないけれど)の主役である彼女が「思ったことをそのまま書いていけばいい。足りない部分はあとで付け足せばいいし、いらない部分はあとで削ればいい。とりあえず、書くことが大事だよ」と教えてくれたので、それに従って、ただ思ったことをそのまま文章にしていくことにする。

 どうか辛抱強く読んでいただきたい。僕には明確に、伝えたいことがある。僕らの時代は無理やり文章を書かされることが多いので、文章を書くために題材を用意することが多いと思う。でも今回は、そうじゃない。僕の人生においてはじめて、心の底から書きたい、書かなくちゃいけない、と思った出来事があるから、それを書くんだ。それは、読者にとっても貴重なことだと思う。何回も同じことを言ってしまって申し訳ないと思うけれど……でも、やはり正直に語るとこのようになってしまうから、少し大目に見ていただきたい。
 それにこれも、一種の演出……つまり、何というか、不器用な男子高校生らしさ、みたいなものの表現として見てもらえば、面白いんじゃないかと思う。いやもちろん、自分が何か、別の存在であるとか、そういうことを匂わせたいのではなくて……そうだな。「あー分かる分かる。こういう人いそうだよね」と思っていただけたら、僕は万々歳だ。僕みたいな人はきっとどこにでもいるだろうし、そういう「どこにでもいそうな感じ」は結構、読んでる側からしたら、親しみやすいのではないかと思うんだ。

 そういうわけで、本題に入ろうと思う。これは、僕がひとりの女の子に出会うだけの話だ。いやもちろん、甘酸っぱいよくあるラブロマンスのようなものではないし、そういうのは僕には荷が重いから、期待しないでほしい。どちらかと言えば、モブの立場から、ヒロインの美しさをただ描写するだけ、という方が正しいような気もする。いやでも、それだけで終わるわけではないんだ。彼女、浅川理知と僕はクラスメイトだし、多少の接点がある。一応、友達として認めてもらっている。いやもちろん、彼女は決して友達が少ないわけじゃないし、僕以外にも男友達はいるから、僕が彼女と何か特別な関係がある、というわけではない。
 それに僕は彼女に恋をしている、というわけでもない。ただ、人間として……あまりにも綺麗で、その瞬間が、つまり彼女が高校生である時期というのが、それほど長くないことを知って、それを忘れてしまわないうちに、書き留めなくてはならない、と思っただけなんだ。人の一生は長いともいえるし短いともいえると思うけれど、常にその瞬間はその瞬間だけで、記憶はどんどん薄れていく。過ぎ去った時間は返ってこない。この現実に現れた美しい景色も、それが人間にまつわるものならなんでも、どんどん失われて、忘れ去られていく。そう思うと、僕は胸がぎゅっと苦しくなって、いてもたってもいられなくなる。どうして時間が止まってくれないのだろうと、馬鹿みたいに本気で悩み始めてしまう。だから、書くしかないと思ったんだ。
 僕と同じように思う人がこの世にどれくらいいるかは分からない。これが芸術ということなのかどうかも分からない。でも僕は、彼女という人間が、僕の目の前でその美しい姿を惜しげもなく晒しているという事実が、どうしようもなく……僕を驚かせ、成長させ、このように、僕を駆り立てている。
 僕は彼女に出会うまで、人間というのはしょせん醜いもので、現実において一番美しくて立派な人たちというのは、芸能人だとか政治家だとか、そういう目立つ職業について、皆からの人気を得ている人たちだと思っていた。僕はそういう人たちはすごいと思うけれど、それほど綺麗だとは思えなかった。同じ人間、と思った。それよりもずっと漫画やゲームに出てくるキャラクターの方が立派だと思ったし、魅力的だと思った。想像の中の人物よりも魅力的な人物なんて、現実ではありえないと思っていたんだ。それは、僕の中学時代の同級生の何人かも同意してくれたから、きっと同じように思ったことのある人は少なくないと思う。(女の子で同意してくれた人もいる。勘違いしないでほしいのだけれど、僕は決して女の子と関わりが少ない人生を歩んできたわけじゃない。こんなことを言うと、反感を得るかもしれないが、どちらかといえば僕はモテる方だった)
 彼女と同じクラスになってから、すぐに、彼女は特別な人間なんだと思った。それまで、想像もできないような生き方をしている人だった。まるで……誰かが想像した、理想の人物、想像上のキャラクターが、現実に抜け出してきたかのようだと思った。中学時代の友達がよく「二次元に行きたい」と言っていたけれど、それとは逆のことが起きているんじゃないかと、疑ったくらいだった。(いやもちろん、本気でそんな風に思ったわけじゃない。正気を疑われると困る。それくらい魅力的だった、という話だ)

 しっかり開いたまぶた。長いまつげ。くっきりした眉。しっかり閉じられた口元に、高い鼻。少し彫りが深くて(父方の祖父がユダヤの家系のアメリカ人、とのこと。クォーター)日本人として違和感のある顔ではないのだけれど、やはりそれでも他の子たちとは違った独特の雰囲気のある顔だった。髪型は時々変えているのだけれど、基本的に前髪は短めに揃えられている。(他の子たちとの会話を立ち聞きしたところによると「目にかかって邪魔になるのは嫌だから」とのことだった。その辺は意外と普通なんだな、と思った)
 あまり彼女のことでマイナスの面を語るのは嫌なのだけれど、でもやっぱり現実は現実だから、それも語らないといけないと思う。彼女の髪は時々痛んでいる時がある。ストイックな彼女は毎日外に出て走っているらしいから、日に焼けてそうなったのだと思う。特に夏は髪がかなり茶色っぽくなっていて、少しぼさっとした印象がある。本人は少しも気にしていない様子で、冬が近づいてくると少し黒色に戻る。彼女は黒髪が似合うから(それは彼女の同性の友人たちの間でも一致している見解だ)僕はそれで少し複雑な気持ちになる。

 見た目のことばかり語っていたら、まるで彼女が見た目だけの人間のように思えてしまうかもしれない。全然、そんなことはない。いやむしろ彼女の魅力は、外見以上に精神的なところが大きい。かわいい子や綺麗な子は、高校生なのだから、他にも結構多い。でも、心まで美しい子は、滅多にいない。美しいふりをしている子は時々いるけれど、いざというときにその性格の悪さがにじみ出てきたりする。大人しい子は、基本的に僕はダメだと思っている。いつも受動的で、自分で何かを変えようという気持ちがない。すぐに人に流されるし、皆がやっていることならどんなことでも自分もやっていいと思っている。そういう女の子は、どれだけかわいくても、綺麗とは言えない。
 浅川さんは、反面、とても気の強い女性だ。気は強いのだけれど、声や態度は柔らかくて、誰にでも親切に接する。誰かに何かを押し付けたりしない。いやもちろん、ちょっとした嫌味を言うことはあるけれど、でもそこに敵対的な感情はなくて、どちらかというと、愛情のこもった呆れのような印象を受ける。その……僕の実際のお母さんはそんな感じではないのだけれど、よく物語で出てくる優しいお母さんが「もう、○○ったら」と言うような感じ。だからか、浅川さんのことを「理知ママ」と呼んでいる親しんでいる女子が何人かいる。さすがに男子がそれを言うと気持ち悪いと思われるから黙っているけれど、同じように感じているクラスメイトは何人かいるんじゃないかと思っている。

 仕草はいつも気品があって、きびきびしているんだけど、焦っている感じは全然なくて、マイペースなんだけど、決して遅れることがなくて。失礼な表現かもしれないけれど、ものすごく優秀なメイドさん、みたいな感じ。いやもちろん、メイドさんみたいな従順さがあるかと言われたら、そういうわけではないのだけれど、でも自分に与えられた役割はきっちりこなすところは、本当に、皆頼りにしてるし、尊敬している、立派な長所だと思う。人が嫌がることも率先してやるんだけど、誰かがさぼるとその分を必ず彼女が埋めようとするから、皆、他の人が自分のせいで負担が大きくなるのは何とも思わないんだろうけど、浅川さんが自分のせいで人よりたくさんの仕事をしているのを見るのは嫌みたいで、だからか、サボリ癖のある人も、浅川さんがいるおかげでめったに当番をサボらなくなっているのだと思う。これは僕自身が考えたことじゃなくて、僕の友人で、サボリ癖のある清水が言っていたことだ。浅川さんがいるから、俺は教室の掃除から逃げないんだって。
 誰に言うでもなくて、ただ自分の態度と美しさだけで人の行動を変えるのって、本当に可能なんだって、僕は驚いている。それは何も掃除の話だけじゃなくて、他の色々なことでもそうだ。彼女の言葉には皆が耳を傾ける。(彼女は口数が少ないけれど、でも話すときはちゃんと、長い言葉で話す。はっきりと、分かりやすく、大きな声で。慎重に、ていねいに、心を込めて)

 彼女はクラスのマドンナ、という感じではない。芸能人なんかに比べるのは、浅川さんに失礼だ。目立つことはあまり好まず、ただ静かに、自分らしく生きることだけを考えている。人気を得ることや、成功することではなくて、ただ自分に備わった能力を最大限生かすことだけを考えている。彼女の美しさは、作られた、表面的なものではなくて、もっと根源的な、人間の到達しうる最高点というべき美しさで、それは絵画の美しさというより、彫像の美しさだった。
 一部分の美しさではなくて、その生き方、容姿、態度、仕草、それら全てが調和していて、決して無理のある感じではなくて、見ている人へのサービスがあるわけでもなくて……それはたとえば、野生の動物が狩りをするときの姿がたくましく、美しいように、野生の、あるべき人間の美しさとして、そこに存在している、という感じ。
 あるべき人間の美しさ。余計なものは何もなく、生きるのに必要なものを、必要な分だけ。誇り高くて、決して自分には相応しくない行いは為さない。普通、人間は、どこか歪んだところがあったり、不必要なものを求めたり、どうしようもなく愚かであったり、欠点には事欠かない。でも浅川さんには、そういう部分が全くない。あ、いや……ちょっと空気が読めないというか、冗談が苦手なところはあるけれど、でもそういうところも含めて、彼女の魅力だと思う。皆を楽しませようとして、失敗して、微妙な空気になることはある。でも彼女は落ち込まないし、あまり気にもしていない。かわいらしく微笑んで「私の冗談ってなんでウケないんだろう」とつぶやく。あぁなんて美しいのだろう! 彼女のような存在が現実に可能である、ということだけで、僕はこの汚れた社会で一生を暮らすのに十分な精神的な栄養を得ることができそうだ。彼女のような存在が現実に可能である。彼女のような生き方をしている人間がこの世にちゃんと存在する。それだけで、僕はこの世界が美しい世界であるということを、認めることができる。

 この気持ちは、恋とか思慕とか、そんな卑俗な感情じゃない。これは僕の欲望ではないのだ。僕は彼女を自分のものにしたいなんて少しも思っていないし、性的な欲望だってほんのちょっとも抱いていない。それは、美しい大自然に触れた時のような感情なのだ。あの美しい富士を、自分のものにしたいなどと思う人間がいるだろうか? いるわけがない。あの富士は、そこに存在するだけでいい。そこに存在できるというだけで、僕らはそれに満足し、愛することができる。彼女はそういう存在なのだ。

 彼女の美しさはどれだけ語っても語り足りることはない。しかし僕の乏しい才能では、これ以上のことを語っても、彼女のことをより詳しく正しく示すことはできないと思う。あえて語らないことによって、読み手の想像力を刺激する、という技法のことは聞いたことがある。それが実際に機能しているか分からないけれど、でも、自分に分不相応なものを課して、余計なものを付け足すよりかは、これ以上は書けないと思ったタイミングでやめるのがいいと思う。

 この文章を彼女が見たら、どう思うだろうか。気持ち悪い、とはきっと思わない。彼女はそういう人じゃない。
 きっと優しく微笑んで「嬉しいけど、過大評価だよ」なんて、あの綺麗な声で囁くと思う。
 彼女はそういう人なのだ。

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