悲観的であること、楽観的であることは、自分で決めることができるか

 悲観主義と楽観主義は、長らく心持ちや気質の問題だと思われてきた。「悲観的であるべきか、楽観的であるべきか」という問いばかりが建てられてきた。
 あるいは、他者の悲観主義や楽観主義を批判するために、その語が用いられてきた。

 だが冷静に考えてみよう。私たちの楽観主義や悲観主義は、私たち自身の支配下にあるのだろうか? 私たちが、決められることなのだろうか?

 私にはこう思われる。楽観主義とは、その肉体が、楽観的であることによって利益を得ることができるから、楽観主義であることができる。また、悲観主義とは、その肉体が、悲観的であることによって利益を得ることができるから、悲観主義であることができる、と。

 具体的に言うならば、周りの人間が親切で、多少自分が失敗しても自分や周りの人間の命や将来が決定的に損なわれないという確信がその人間の中に存在する場合、また、彼がそう確信するだけの状況証拠が彼の周囲にある場合、彼は楽観主義的に生きることができる。
 逆に、悲観主義は、彼の周りの人間が不親切で、自分が考えなしに動いたり、やるべきことをやらなかった結果、悲惨な結末に至ると予想される場合や、そのような予想を生み出すような状況証拠が彼の周囲にある場合、彼は悲観主義的に生きることができる。

 楽観主義とは、基本的には欲望や衝動のままに生きていても構わない、と信ずる気持ちである。言い換えればそれは、自然的でいよう、とする傾向である。自然的のままでも、生き残っていける、という確信でもある。
 対して悲観主義は、自然的であってはならない、自然的なままでは、あまりにも私たちの今後は危険であり、悲惨である、とする傾向である。

 そして面白いことに、楽観主義者はその楽観的な状況を維持しようと欲せず、悲観的なものをできる限り排除しようとする。楽観的である場合、基本的に自分の不自然な意思や、他者からの圧力に対して無頓着であるため、彼は自分が楽観的でいられるその状況がどのように作られたのか興味を持たないし、同様に、それを維持しようとも欲しない。
 対して悲観主義者はさまざまである。己の悲観主義にうんざりして、楽観的に生きるために、楽観的に生きらえるような環境を必死になって整える者もあれば、逆に己の悲観主義を愛し、悲惨な世界でも力強く生きられる自分を愛し、その悲惨な状況を維持しようと努める者もある。悲観主義者しか生き残れないような世界を欲し、あらゆる楽観主義者を罠にはめて破滅させようとする悲観主義者も、決して少なくはない。

 楽観主義者は基本的に、己の欲望のままに他者を傷つけるし、そこに悪意や敵意は基本的にあまりない。
 対して悲観主義者は、己の欲望のままに他者を傷つけることが、まずない。代わりに、罰や抑圧、支配という形で他者を躊躇なく傷つけることがあり、そこには悪意や敵意が必ず混ざり込んでいる。
 彼にとって欲望は己を破滅させかねないものであり、だからこそそれに対しては慎重になり、欲望のままに生きている人間を、己の利益や安全のために犠牲にすることを正当化することができる。


 楽観的な女はたくさん子供を産む。産んだ子供がちゃんと生き残れるかどうかとか、健康に育つかどうかとか、そういうことでいちいち不安にならないので、産めるタイミングがあればいくらでも産む。
 安全でストレスの少ない環境において、健康な女性は、子供を産みたがる生き物だ。女性は子供を産まなくてはならない、という社会的な圧力など必要がないくらいに、大多数の女性は幸せになると、子供が欲しくなる。
(逆に、社会や男性が女性に向かって「子供を産め」と言わなくてはならないような環境はすでに危険かつ病的な環境であり、女性に改善を求めるよりも、社会と男性が自ら改善しようと努める方がいい結果が得られると思われる。女性は幸せでない限り多くの子供を産むことはないのだから、女性が幸せに生きられる社会を作らなければ、その社会は必然的に繁栄しないのだ)
(男性的な意味で、性的に奔放な文化が育まれた社会では、ほぼ必ず少子化が引き起こされる。奔放な性文化は、女性にとって不愉快かつ不幸せなのだ)

 女性が悲観的になると、子供を産まなくなったり、あるいは少ない子供に対して過度な干渉を行って管理的に育てようとする。自分の子供を守るために、他の人間を平気で犠牲にするようになったりする。親切心が失われ、視野が狭くなり、己と子の利益と最低限の生活を維持するのに精一杯になる。そうしなくては、子供に危険が及ぶような、社会環境なのである。自由にさせた結果、命が失われたり、子孫が残せないほどに傷ついてしまったり、そのようになってしまう危険が大きすぎる場合、母親は周囲や子に対してヒステリックになるのである。

 男性の方はと言えば、楽観的な状況下では基本的に野蛮になる。だが、男性には常に二面性が存在しており、野蛮な面と、理性的な面の両方を高度な形で備えていることが珍しくない。彼は家庭内において非常にまじめで、文化と習慣を重んじるいい父親であることができるが、一度外に出てしまえば、獣のように欲望に忠実になって生きることができる。
 楽観的な性格の男性は、基本的に怒りっぽくて暴力的である。怒ってしまうかもしれないとか、暴力を振るってしまうかもしれないとか、そういう恐れを一切抱いていないので、準備ができていないのだ。
 彼らは性的な意味で魅力を持っていることが少なくはないから、悲観的な状況下においても楽観的に生きようとすることが珍しくないし、結果としてそれで子孫を残すことができることも多いと思われる。
 ただ……世界的に、このような快活で危険な男性性は、敵視され、弾圧され、絶滅しつつある。

 逆に、悲観的な男性とは現代の典型的な「人間像」である。極度に利己的であり、集団に対して従属的。将来に対して備えを常に持っていなくては不安であり、他者からの軽蔑や嫉妬に敏感。
 色々なタイプがいるが、共通点としては、小さなことで不安になることと、不安を一切感じない暴力的な楽観主義的な男性を、本能的に強く憎むしかない、という点だ。
 当たり前のことだが、悲観的な男性の方が、そうでない男性よりも頭がよく、複雑な作業をこなし、失敗も少なく、演技的であることもできる。
 つまるところ、悲観的な男性の方が、楽観的な男性よりも、より楽観主義的な自分を演出することができるのである。それくらい、器用さを育むしかない性質なのである。

 厄介なことに、女性が悲観的であってもろくなことはないが、男性が悲観的である場合、女性にとっても他の男性にとっても、有益なことはとても多い。楽観的な男性、つまり、自然的な男性は、性的な意味ではとても魅力的かもしれないが、あまりにも危険であるから、他によって痛めつけられ、矯正され、そのような経験の結果、悲観主義的になって生き残る道を探るしかなくなる、という結果に至ることがあまりにも多い。
 それを「成長」と呼ぶ人間もいるが、そう呼んでいる時点で、その人間の中にはある種の楽観性が残っている。どちらかというと「去勢」、あるいは「去勢への恐怖」と言ってしまう方が、実態に即している。


 さて、私はこのようなことを真顔で述べることができるような奇妙な人間であるが、私はこの不愉快な人間の性質をどうすれば改善できるか、その答えを持っている。
 答えは、極度に楽観的かつ、極度に悲観的であること、だ。つまり己の本能的な危険性や無謀さ、見通しのなさを肯定しつつ、その自分自身の楽観性を、悲観主義的な目で眺め、最低限のコントロールを行う、ということ。
 これを、男性にも女性にも求めたい。歴史上、優れた男性も女性も、この両方の気質を持っていたからこそ、時に非常に冷酷で無慈悲なことを決断することができたし、それでいて他者に対して一定の権利を認め、彼らと良好な関係を維持することができた。

 ベースは楽観主義にあるべきだ。自分の人生は、自然的な気質は、優れていて、正常なものであるとみるべきだ。男性も女性も、だ。
 だが、その通りに生きてやっていけるほど、私たちの生きている環境は私たち自身にとって都合のいいものではないし、都合のいいものに変えることもできない。その現実から目を背けたって、ひどいことにしかならない。その点では、悲観主義者であるべきだ。悪いのは環境であるが、だが私たちはその悪い環境に合わせて行かなくてはならない。そうでなくては、私たちの楽観主義はいつか他者によってぐちゃぐちゃに破壊され、元通りにならなくなってしまう。

 何よりも強く強靭な悲観主義が、悲観的な見通しが、私たちの崇高で価値ある楽観主義を守護するのだ。
 私たちが悲観主義的になるのは、私たちの命を守るためだったが、はっきり言って、私たちの悲観主義は、もっと多くのものを守れるし、愛することもできる。自分の価値あるエネルギー、つまり悲観的な予測とその対策を行う力は、己の利得や、他者との関係性だけに使うには、あまりにも充溢している。

 そういうわけで、私たちは私たちの楽観主義を愛することとしよう。私たちの本質が、楽観主義にあることを認め、本能のままに生きることを肯定しよう。
 そしてそれが道を踏み外さぬように、この明敏な理性、すなわち悲観主義を、真っ赤なマントで着飾り、私たちの栄光ある理性主義として称えよう!

「人生は苦しい。人生は悲しい。私たちは互いに傷つけ合う。平和などありえない。世界から醜さがなくなることはない。誰からも理解されない。道を踏み外したとき、助けてくれる人は誰もいない」
 そう現実をまっすぐに見つめるのは、私の悲観主義。そして。
「だからどうした! それが、私が幸せに、思うままに、自由に、何の呵責もなく、明るく、道の真ん中を、私の道の真ん中を歩いて生きて死んでいくことに、何の関係があるだろうか!」
 私の楽観主義は、そう結論する。

 必然的に私は、私以外の楽観主義者とも、悲観主義者とも、相容れることはないだろう。
 悲観主義を内側に持たない楽観主義者は野性的で動物的、あまりにも下品かつ危険で、私の悲観主義が恐れ憎むしかない者なので、私とは相いれない。
 楽観主義を許すことのできない悲観主義者は、私の楽観主義を羨むか軽蔑するしかないだろうし、私自身も、暗くて利己的なだけの人間は、見ていて気分が悪いし、なんだか後ろめたい気持ちになってくる。だからこの連中とも、私は仲よくすることはできないだろう。

 だから、私が愛するのは、私自身なのだ。道筋は異なっていても、私と同じことを結論し、その人自身の楽観主義と悲観主義の中で生きている人を、私は必然的に愛するしかないし、そういう人といずれ共に人生を歩んでいきたい。

 私たちの本能と理性の両方に、万歳!

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