心配されること

「あなたのことが心配です」
 私は昔から、そう言われることが多かった。

 大半の人にとって「心配される」ということは喜びであるようで、苦しいときに誰からも心配されていないと、さらに苦しくなるみたいだった。

 だから彼らが私を心配するのは、一応好意や善意に基づく行為なのだと、私は思っている。

 でも私にとって、それは重荷でしかない。心配されたからといって、私はその人に自分の悩みを打ち明けることはできないし、打ち明けたら打ち明けたで、その人自身が苦しむことになるのは分かっているから。

 だって私が苦しむ理由って複数あって、そのうちのひとつは「その人の頭の悪さ」なのだから。「心配することしかできないその人の無能さ」も、ちゃんと含まれてしまっているのだから。
 どう打ち明けろと言うのだろう? 私はただ黙って「平気だよ」と笑うことしかできない。結局、そういう無理が私をさらに苦しめるわけだ。

 賢い人は、私に対してできることが何もないことを察して、私のことを見ないようにしていた。うん。それが正しい。私はそれでいいと思っていたし、それが私の選択でもあった。

 私は人の心配に救われたことや癒されたことが一度もない。悲しいほどに、私は人の優しさというものが、自分の役に立ったためしがないのだ。
 私は人から好意を向けられることの多い人間だったけど、その好意が私を救うことはなかった。それはとても悲しいことで、もしかしたら私の苦しみの根源にある部分かもしれない。

 私の感覚を率直に伝える言葉がある。
「お気持ちだけ受け取っておきます」
 誰もが一度は言ったことのあるセリフなのではなかろうか。私は、人の善意や好意に対して、そのように感じてしまうことがあまりにも多かった。

 少し想起することが極端になっていることは自覚する。好きだと言ってもらって嬉しかったことは何度もあるし、素敵なプレゼントに大喜びしたことだって、何度もある。私自身が、誰かに贈り物をして喜んでもらえたこともあるし、先ほど私の言ったことは、多分大げさな表現だったと思う。

 私にはそういう傾向がある。勝手に解釈の範囲を広げ過ぎてしまう。

 確かに私は、人から心配されて嬉しかった覚えは一度もない。でも、人の善意が私を助けることもなかったかというと、それは違う。それは違うよ。私は確かに、多くの人の善意に助けられてきたし、それは積極的に認めるべきことだ。私は恩知らずじゃない。たしかに私は、人に助けられてきた。


 冷静に考えてみれば、心配というのはただ「何かしてあげたいけど、自分に何ができるか分からない」という状態の表現なのだと思う。だから、自分が心配されているとき、私はもう少し考えて……いやでも、私が人に心配されるしかないときって、本当にただ、私自身で乗り越えなくちゃいけない問題のことで悩んでいることが多かったから、それも仕方のないことだったのかもしれない。

 心配されることが重荷になっていた時期があったのは、事実だ。
 でもだからといって、あらゆる心配という感情を否定するのは、違う話だ。人の感情は、その時その時で尊重すべきだし、善意や好意はそれ単体で、ありがたいものだ。

 人生は難しいと思う。難しくていいと思う。

 よく考えられる人間でありたい。本音を言えば、誰かを助けられる人間でありたい。自分にそんな力はないのだとわかっているけれど、人を助けるということにどれだけ意味があるかもわからないけれど、多分私は、そういう天性をもって生まれてきたのだろうと思う。

 私は親切な人間でありたい。誰かを助けられる人間でありたい。
 でも、そのためにどうすればいいか分からないんだ。考えても考えても、目に見える手段は全部、私にできそうにないことばかり。私自身の肉体が拒むことばかり。

 嘘をつかず、誠実なまま、誰かを助けるというのはとても難しいことだ。自己満足になってもいけない。でも、この欲求自体が、あくまでそれが自己満足であることを示してやいないか?
 人を助けたいと思うのは、人を助けることによって自分の無力感から目を逸らしたいからなのではないか?

 疑い過ぎて動けなくなった私を笑ってくれ、友よ。
 でも、心配はしないでくれ。心配は薬にはならないから。

 私は私の悩みのせいで、君を無意味に悩ませてしまったかもしれない。君には、私を傷つけるだけの権利がある。

 多分私はさ、心配されるよりも、厳しい言葉が欲しかったんだ。その人自身の、強い、責任感のある本音が欲しかったんだよ。

 それも勘違いないのかな。私は私のことが分からないよ。いつも勘違いしてばかりだし。

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