人から言われたいこと

 自分の貧弱な想像力の範囲内にある「言われてみたいこと」のほとんどは、もうすでに言われたことがあることだと思う。
 私は過去の思い出を何度もその場で思い出して反芻する能力に長けていて、一度言われたことがあるならば、その情景を思い浮かべたり、言われたときの気持ちを思い出して、気持ちよくなることができる。

 言われたら嬉しい、というような言葉はいくらでもある。相応しい場所に相応しい言葉がある、というのはそれだけで気分がいい。でもわざわざ「自分が」言われたい言葉など私にはないし、そもそも言葉なんて、言われただけでは何の意味もない。
 もちろんそれによってその人間の根本的な部分が変わる可能性がある以上、まったくの無駄というわけではないのだが……だが、想像できる範囲内の「言われて嬉しいこと」に関しては、もうすでに想像している時点で準備をしているので、それによって大きな驚きや喜びがもたらされるとはあまり思えない。期待通りの結果、というのは、基本的にあまり内的な成長をもたらさないように、私には思える。
 もちろん、期待に応え、応えられるということにより、人間関係がより良好になり、それによってまた新たな相互の成長に繋がる、という意味では、まったくの無意味ではないし、ただ単に「嬉しい」というだけでも、それを求めるのには十分な理由だと、思う。

 別に誉め言葉や愛の言葉を否定するつもりはない。それはそれで、いいものだ。でもそれに関して、あまり重要だと思いすぎるのは変な話だと思う。
 全く想定していなかったほどの賞賛があった場合、私たちは大げさに喜ぶ。頭がくらくらするほどの、快楽を得る。でもそれを求めて何かをすると、同じように褒めてもらったところで、すでにそれは「想定している」ものになっている以上、以前と同程度の快楽がやってくることはまずない。人間関係における最大の喜びはいつもいつでも「最初の一回」なのだ。
 大事なのは、その「最初の一回」の大きな喜びをちゃんと覚えておき、記憶の中で何度も楽しむことだと思う。そうすれば、それを再び味わおうと醜く足掻くようなことにはならないし、私たち自身もまた別の新しい「体験」のために動きやすくなる。
 快楽の種類はこの世に無数にあり、どれかひとつに執着するのは愚かなことなのだ。色々な快楽を、味わっては捨てを繰り返して、人は快楽よりも価値のあるものを見つけ出していくものだと、私は思う。だからこそ、一個一個の快楽を、自分の中で、深く感じ、解釈する必要がある。その快楽がいったい何なのか、どのようなものなのか、しっかり把握しておくことが、大事なことなのではないかと思うのだ。

 人から言われて嬉しかったこと。これもそうだと思う。なぜそれを言われて嬉しかったのか。なぜそれを言われても嬉しくなかったのか。
 言葉ではなくて、贈り物であったり、手助けであったり、そういう行動による人の善意と、言葉とは、どう違うのか。
 そういう風に考えていくと、言葉の価値も、言葉の無力も、より深く理解できるのではないか、と思うのだ。

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