誰かに命令されたい

 ずっと認めたくなかったけど、昔から私にはそういう強い欲求がある。自分の能力を認めてもらって、正しく認識してもらって、それにふさわしい仕事を与えられて、それに全力を尽くし、成果を出して、評価される、というひとつのサイクルに、憧れている自分がいる。
 それは一種の「人としてのあるべき姿」なのだと思う。それ自体が理想像のように輝いているのではなく、むしろそうでないという現状が、私の心を苦しめるのだと思う。仕事が欲しい。でも、それが必要な仕事じゃないといけない。私だからできることでないといけない。
 本当の意味で、私がやらないと、誰もやらなくて困ってしまう、みたいな仕事をしたい。でもきっとそれは、誰もが無意識的に考え、求めていて、それでもなかなか手に入らないものなのだ。それを手に入れたいがために、やりたくない勉強をして、気に入らない人の下について、そういう風な競争の先に、今の豊かな世の中があるのかもしれない。そこから落伍した私がそれを望むのは、あまりに分不相応だな。

 息苦しさを覚えている。その息苦しさに耐えられなくなったことも。

 年を取れば変わることもある。一番分かりやすいのは、容姿だ。女は必ず醜くなる。そりゃあもうどうしようもないほどに。たとえ化粧で若作りしたって、その若作り自体が、一種の見苦しさを産み出す。老いたのだと開き直っていた方が、まだ見ていられる。判断する必要がないから、恐ろしさや恥ずかしさを感じずに済む。何かを隠している人を見ていると、私は息苦しくなる。何かの拍子にそれが露呈して、恥ずかしい思いをしてしまうのではないかと、意味もなく、関係もないのに、心配してしまう。
 自分でないものを演じることに、大きな不安と恐れを抱くようになった。だから、分厚い謙遜の仮面を被る。何も知らないふりをする。誰よりも大人しい人のふりをする。注目されたくない。怖い。怖くて仕方がない。

 誰かに命令されたい、という欲求は確かにある。でも、誰かに命令したい、という欲求もあるんだ。自分がその場の主役になって、全部自分で決めて、自分より優秀な人たちに、その優秀さにふさわしい、難しい仕事を命じて、その成果に応じて彼らを評価して……そういうのも楽しそうだと思うんだ。意味のあることだと思うし、できないことではないような気もするんだ。

 でも結局は、そのどちらもできないんだ。言葉の中ではいくらでも言えるけれど、実際に動くなると、すぐに嫌になって、全てを投げ出してしまう。別に難しい目標を立てているわけでもないのに、それすら達成できない。たとえば……毎日三十分英単語の暗記に取り組む、とかすら、私はもう満足にできない。できなくなってしまった。できない体になってしまった。
 毎日五分の散歩とかもできない。決めたとたんに、やりたくなくなる。

 読書とかも、毎日一時間、とかって決めたとたん、全然できなくなる。ふと目についた本を適当に手に取って読むみたいに普段生活してて、多分平均すると一日一時間以上は本読んでるんだけど、決めたとたんに、それができなくなるんだよ。実際私、一日のうちに全く本を開かない日もあれば、ほぼ一日中読んでいる日もあって、それはもうほんと、コンディションと気分とモチベーションの問題だから、やっぱりなんか、意味不明な目標立てて、うまくいったことが一度もないんだよね。勉強の計画もそうだよ。目の前にあるものをやってるだけだった。やり終えたら、新しいタスクが勝手に見えてくるから、それをこなしてただけなんだ。もちろん、サポートしてくれる塾の先生とかがいてくれたおかげっていうのもあるけどさ……

 私、まだ誰かから何かを教わっていた方がいいのかな。自分でタスク用意しても、その通りにできないから、誰かからそれを用意してもらわないとダメなのかな。そんな気がしてきた。

 色々試してみないといけないんだよなぁ。あーしんどいよー。なんでこんなしんどい思いしてまで色々やろうとしなくちゃいけないんだろう。

 私、頭悪くなってんのかな。どうなんだろう。まぁでも、この要領の悪さというか、柔軟性のなさみたいなのは、元からだろうな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?