嫉妬の眼差し

 嫉妬、というのは不思議な感情だ。私自身が誰かに嫉妬するときもそうだし、誰かが私という人間の能力や容姿に嫉妬するときもそうだ。

 特に不思議なのは、自分が誰かに嫉妬されている、という事実は、どこか奇妙な陶酔を感じさせる、ということだ。いやもちろん、それによって何か嫌がらせをされるのは気分が悪いから、遠くの方から嫉妬されている場合だけだけど。
 たとえばネットで小説を書いていると……あんまりこのことを言うのは品性の欠けたことかもしれないが、他の人が私のことを「すごい」と思わずにいられないことを、私は意識する。自分自身でさえ、自分の書いたものに心を動かされ、なぜこんなものが書けるのかと不思議がって、奇妙な感覚に囚われるのだから、読んでいる人の何割かは、私と同じ感情に囚われて「私にはこれほどのものは書けないだろうな」と苦しむだろうな、と想像する。特に小説家を志している人は……私の文章を読んで、そのような能力にまつわる苦しみを覚えることが多いのではないかと想像する。想像して、私は……奇妙な気持ちになる。
 その劣等感と言っていいのかよく分からない感情は、私自身が他に対して何度も感じてきたものだ。優れた著者というのはどの時代にもいるし、名作ばかり読んできたから、それにどうしようもなく心を動かされ、大号泣することも多かったから、何というか……無理だな、と思うことは多かった。この作品に並ぶようなものを書くことは、私にはできないだろうな。絶対にできないだろうな、と感じることは多かった。
 だから、そう感じているのが私だけじゃない、ということに安心しているのかな、と思ったが、多分そうじゃない。これは、そんな綺麗な感情じゃない。もっと薄汚れていて、醜い感情だと思う。ドロドロとしていて、恥ずかしく思ってしかるべき、そういう感情であると私は思う。
 多分私は、自分の才能に酔っているのだと思う。他者よりも優れている自分に、酔っているのだと思う。自分は特別だと思うことによって、誰かから特別だと思われていることによって、私は喜んでいるのだと思う。

 そういう態度は、人を不快にさせる。私自身、そういう態度の人間を見ると、普通に腹が立つ。何を勘違いしているんだ、と思う。優れているのはお前の作品であって、お前自身ではない。私はそう言いたくなってしまうし、私自身だってそうなのだ。実際、私は私の作品をちゃんと理解していないし、同じものを二度と作れるとは思えない。毎回毎回、私は自分が書いているもののことをよく分かっていないし、よく分かっていないときの方がいいものが書けている。そういう事実を無視して、自分自身の感情を満たすために作品を利用していることが、恥ずかしい。恥ずかしいのだけれど……どうにも、そういう感情は私の心臓を掴んで離さない。
 誰かが私を「すごい」「魅力的だ」と思うたび、私は自分が大きくなるのが分かる。でもそれは、ゴム風船が膨らむようなもので、単なる空威張り、虚勢の原因にしかならない。現実の私はどうしようもなく小さくて、自分の思い通りに自分の生活すら整えられない、社会不適合者。自分自身のことなんて何も分からないし、分かるつもりもない。周りには迷惑をかけてばかりだし、ひとりでいたいとか言うくせに、すぐに寂しくなって、誰とでもいいからおしゃべりしようとする。そんな弱い人間なんだ。そんな弱い人間が、ちょっと褒められたくらいで、ちょっと嫉妬されたくらいで、何を思いあがって……


 謙虚さと傲慢さ。嫉妬は怖いけれど、気持ちがいい。誰かが私を見て、その人自身の能力の低さを自覚して、苦しむ。それを想像して、私は楽しむ。楽しんでしまう。私はそういう人間なのだ。そういう部分を隠して、人と接している。私は嫌な奴なんだ。嫌な奴……
 ずっと自分自身でうまく認められなかったけれど、でもやっぱり私は嫌な奴だ。無意識的にそれを感じ取っていた人はいたかもしれない。隠しても、隠しきれないことはある。自分自身が認めていなくても、なかったことにはならない。自分の低劣さ、弱さ、醜さは、どうしようもなく他者の顔をして私の前で笑う。

 私は嫉妬屋で、それだけでなくて、嫉妬されることにも喜ぶ、悪趣味な人間なのだ。

 これをどう受け入れればいいか分からずにいる。ずっと前に嫉妬について考えて何本か記事を書いた覚えがあるが……その時には、自分が誰かから嫉妬されて喜ぶような人間であることについては、気づいていなかったと思う。気づいていなかったというか、あえて気づかないふりをしていたというのが正しいのかもしれない。

 私は、嘘つきだ。しかもたちの悪いことに、ないことをあるというのでも、あることをないというのでもなく、あるものをあえて黙ることで、ないものであるかのように取り扱うことだ。これじゃ、ほとんどの人を騙せてしまう。それがよくないんだ。それが……偽るということなのだ。私は私でしかないのに、実際よりも美しく、大きい姿を人に見せてしまう。それがよくないのだ。それが、疲れる原因になるのだ。自分自身も不快だし、他の人にとっても不快だ。それに今まで気づかず続けてきたことも……今も、きっと同じことを続けてしまっていることが、私はどうにも不快だ。

 自分自身の言葉の使い方、誰かとの関わり方、生き方、そういうものが、揺らいでいる。分からないと思う。どうやってこの先に生きていけばいいのか、分からずにいる。どのような態度で、どのような顔つきで。
 でもそれは、ずっと前からそうだった。分かりそうだと思うたびに、もっとたくさんの分からないがやってきて、私自身の選択肢を増やしては、消していく。
 いつだって残るのはたったひとつの「自分」だけだ。私は私なりに考えて、自分自身と折り合いをつけて生きていくしかない。
 自分の醜さも、しっかりそこにあるのだと認めて。ちゃんと居場所を用意して、私自身の役に立ってもらわないといけない。

 すべての悪徳は、その扱い方の誤りに原因がある。と、私は信じている。

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