雨粒あるいは雷鳴のように

 恥ずかしがり屋だった。親の足の裏に隠れてばかりの幼少期だった。それでも、人から目立つことを強要されることが多かった。ピアノの発表会もそうだったし、バレエもそうだった。全部全部苦手だった。怖かったし、不安だった。だから、親が驚くほどに、自主的に練習した。失敗したくないから。目立ちたくないから。だから、完璧にできるようになるまで練習しようと思ったのだ。
 その努力は、一種の「逃げ」だったと思う。弱い自分を人に見せたくない、というネガティブな感情がエネルギー源だったと思う。まぁでも、成功の基となった感情が何かなんて、みんな興味ないし、大事なのはそのときちゃんとうまくやれたかどうかなのだと思う。
「都ちゃんはすごいよね。努力家だし、謙虚だし、かわいいし」
 結果は求めていなかった。でも失望されるのが怖かった。だから、自分にできる全力を尽くし続けた。
「なんでもできる人に、私の気持ちは分からないよ」
 他の人の独り言は、あまり私の耳に届かなかった。いつだって私は、人の意見は「そうなんだぁ……」としか思えなかった。嫉妬も賞賛も、カラスの鳴き声みたいだと思っていた。人は言葉じゃなくて、目で語るものだと思っていた。だから……私を不安げに見る眼差しや、期待の刃を突き立てる眼光の方が、私にとっては身近だった。
 注目されたくなくて一生懸命になっていたのに、事実は、現実は、一生懸命になっている人間に注目が集まるようにできているようだった。私は、目立っていた。

 普通の人には分かるようなことが、分からないことが多かった。私は人から褒められることが多かったけど、でも……私自身の目には、私には何か人間として致命的な欠陥があるような気がしていた。たとえば、漫画に出てくる登場人物たちがなんであんなに馬鹿ばっかりなのか、とか。どうして子供も大人もビームとか爆発とかパンチとか、人が傷つきそうな派手な何かを好むのか、とか。あと……どうして成功を欲する人ほど、単純な努力を怠ろうとするのか、とか。ずるをしたり、近道を通って人を出し抜くことに喜びを感じる人の気持ち、とか。分からないことだらけだった

 小六のとき、クラスの声の大きい女の子のグループから、トイレに呼び出されたときも、私はなんで呼び出されたのか分からなかった。いきなりぺちん、とビンタされたときに、はじめて私は「イジメられる」ということに気づいた。同時に、無意識的に言葉があふれるのが分かった。
「あんたらに私がどれだけ苦しんでるかなんてわかるもんか! 私がどれだけ努力して、皆に失望されない自分を演じているのか! あんたらの嫉妬はいつも自分勝手で、お前ら自身が馬鹿だから、苦しいから、そうやって憎む対象を自分の代わりに誰かに押し付けることで、安心しようとしているんだ! くそったれ! ぶち殺してやろうか! 私は、私は、どれだけ今まで苦しんできたか! これ以上はごめんだ! 殺してやるからな!」
 言葉は不思議だ。声に出せば出すほどに、意識したことのない感情がどんどん強くなって、溢れていくのを感じた。私は私をビンタした女の襟首をつぶれるほど強く握り、決して合わないその目を睨み、本気でどうやって殺してやろうか考えていた。にやにやしながら私を囲んでいた女のひとりが恐れ知らずにも私の肩を掴んで引きはがそうとしたから、私は感情に任せて振り返って、握った拳を振り回したら、その女の側頭部に綺麗にヒットして、女は汚いトイレの床に倒れ込んで「ひっ」と情けない声を上げた。私はそいつの腹を思い切り蹴ってやろうと思ったが、その瞬間には立ち上がって逃げ出していた。私はそれを自分の感情に任せて追いかけた。が、追いつくつもりはなかった。ただ、自分が……自分が強者であり、相手の生殺与奪権を持っていて、恐怖を抱かせる存在であるということに、酔っていたのだ。支配する感覚。いつでも殺してやれるのだという、万能感。

 感情が落ち着いたときには、奇妙な気持ちになった。罪悪感は少しあった。学年主任の先生に呼ばれたとき、私の心の中にはまだ怒りが残っていて、あったことをそのまま報告すると、その先生は判断に迷っている様子だった。いじめっ子たちの供述は「自分たちは被害者である」の一点張りであるのに対して、私の供述は、自分の落ち度も相手の悪意もそのままに語っていて、信憑性は私の方にあるようだった。だがより強く傷ついたのは彼女らの方であり……しかし、個人的な暴力事件よりも、イジメ事件の方が、学校側の問題としては大きいし、より強く叱るべきは、そっち。
 なぜそんなに、教師の考えていることが手に取るように分かったのかは分からなかった。もしかしたら、あの出来事をきっかけに、私の中の思考のブレーキのようなものが壊れたのかもしれない。暴れることの楽しさを知り、人を支配することの楽しさを知り、それと同時に、相手の思考を理解することの喜びを知ったからかもしれない。確かにこの気持ちよさは、生半可な「成功」なんかじゃ得られない。

 結局私たちは互いに頭を下げた。彼女らは、私が羨ましくて、ちょっと嫌がらせしてやろうと思ったと認め(イジメようと思っていたことは認めなかったし、ビンタしたことも認めなかった)私は、ぶち殺してやろうと思ってしまって申し訳ないと謝った。私は終始笑顔だったし、彼女らは笑っていた私を恐れている様子だった。その子たちは、二度と私と積極的に関わろうとはしてこなくなった。と、思いきや、そのうちのひとりが中学生になってから、あるとき私を呼びだして、愛の告白をしてきたときは私はつい笑ってしまった。断ったけど、不思議なこともあるもんだと思った。


 人に理解されることなんて求めていなかった。自分の人生は空っぽだと思っていた。
 私は他の子たちよりも成熟が早かったし、だからこそ人付き合いはうまくやっていた。上手に相手の気持ちを誘導して、自分の都合のいいところに落ち着かせるすべを身に着けていた。でも自分の人生がうまくいけばいくほどに、サボることを覚えるたびに、目立ち過ぎないことを覚えるたびに、自分の存在がどんどん無意味であるように思えてきた。
 人に話すべき「自分らしさ」は見つからなくなったし、テレビによく出てくる「成功者然」とした人物がどうにも、自分とよく似た空っぽさを抱えた人間っぽくて、気持ち悪かった。金とツテと人気と……まぁ何でも持っているように見えるのに、本人の中にあるのは、人並み以下の欲望と感情。満足することのない空洞をその精神に見て「あんな風にはなりたくないな」と思うと同時に「あんな風になりたい」と思ってしまう人たちを、強く軽蔑した。でもその軽蔑を口に出したとき、それに楽しそうに同意する人たちからは、嫉妬の匂いがした。嫉妬の匂いがしている時点で、内心の「あんな風になりたい」がにじみ出てきていて、やっぱり私とは違うタイプの人間なのだと、孤独を感じた。強く、感じた。

 見下すべきことを見下せていない人間があまりに多い、と雨の中、傘もささずに考えたことを覚えている。この世は下品であり、くだらない人間で溢れている、と思ったことを覚えている。


 私はこの気持ちを誰かと共有したいのだけれど、共有できるほど、高度かつ歪んだ魂を持つ人は、身近にいなかった。私には優れた才能もなければ、中身のある豊かな心もないけれど、出る杭であり、曲がった杭でもあった。
 同じ曲がり方をしている人を探したのに、ひとりも見つからなかった。気の合う人がいるというのはどういう気持ちなのだろう。自分と似た人がいるというのはどういう気持ちなんだろう。心を通わせることができるというのは、どういう気持ちなのだろう。
 私にできることは、一方的な想像だけ。

 雨が私の頭と肩を叩くたび、私も誰かにとっての雨粒のような存在になりたいと思うのだ。冷たくて、激しくて、体温を奪い、それと同時に、その人自身の熱い気持ちを自覚させるような、そんな存在になりたいと思う。
 誰とも分かり合えない私はせめて、そういう風な、一方的なやり方で、誰かとともに生きていたいのだ。
 雨粒、あるいは雷鳴のような生き方に、憧れている。

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