「私たち」についての考察

 現代人はすぐ「『私』ってなんだろう」と考え始めるし、それが哲学だと思い込んでいる人も多い。

 でもそこからさらに追及して「『私たち』ってなんだろう」と考える人は、あまりにも少ない。実のところ、「私」という存在なり語なりの問題は重要ではあるが、それと同等かそれ以上に「私たち」の問題も見逃してはならない、重要なものである。

 私たちは、文章を書く時でも人と話す時でも自然に「私たちは」という言葉を用いる。これはいったい何なのだろう? と考えてみたことがあるだろうか。なぜ「私は」ではなく「私たちは」と口に出したのだろう? それをちゃんと考えてみたことがあるだろうか。
 その「私たち」は、どこまでの範囲を指し示しているのだろうか。私と、私のこれを読んでいる「あなた」の二人を「私たち」と呼んでいるのだろうか。それとも「自分も含めた日本人」というくくりで使っているのだろうか。それとも、全世界今この瞬間生きている七十億の人間全てをひっくるめて「私たち」と呼んでいるのだろうか。

 先に断っておくが、この記事では私は唯名論の立場を取る。語は、何らかの存在や観念を指し示すためのものであり、それ自体に何か実態や本質はないものとして扱う。(私という人間がその立場をとって生きているわけではなく、ものを考えるときはある程度先に土台を固めておかないとめちゃくちゃになるから、そのために今は唯名論を土台にして思考を進める、ということであることを理解していただきたい。私は実在論的立場も取れるし、唯心論的な立場もとれる人間だ)

 この世界に存在する人間は全て「個人」である。個人でない人間は存在しないものとして考える。つまり人間同士の繋がりは、あるひとりの人ともうひとりの人が手をつなぐようにして、繋がっている、というわけだ。たとえ十人の人が輪を描いて手をつないだとしても、それでひとつの生き物になるわけではない。あくまでそれは「ひとりの人間」が十人集まって、互いに手を繋ぎあっているだけである。
 人間の「社会」「集団」はこのようにして成り立っている。それはひとつの生き物ではなく、個々が協力して、(精神的な)握手をすることによって成り立っているものである。

 「私」という語は、誰とも握手をしていない状態である。それは、自分という個の肉体(あるいは精神)のみを指し示しており、それ以外の他者をその範囲に決して含めない。
 そして「私たち」という語は、自分が手を繋いでいる他者を含めた範囲を示している。それだけでなく、自分が手を繋いでいる人が繋いでいる人も含んでいるし……つまりこれは、ある種の網のようなものなのである。たとえばこの文章を読んでいる人が私に対してのみ精神的に手を繋いでいる場合、私が「私たち」といったときは、読んでいるその人自身と、書いている私自身の二人を「私たち」として取り扱う。
 それに対して、この文章を仲良しの三人姉妹が読んでいるとすると、少なくともその三人は同一の行動をとっており(同一の文章を読んでおり)ある程度同一の感覚をもっているため、手を繋いでいると言える。彼女らにとっての「私たち」は、書いている私と、その三人を含んだ、四人をその範囲に含む。

 「日本人」としての感覚が強い人が読めば、私が「私たち」と言えば、その人は「日本人全員」と自分が手を繋いでいるものとして感じているのなら、その範囲に「私たち」が設定される。

 基本的に、精神的な繋がり、共同体意識、というものは、一種の想像である。だが想像だからといって、それが存在しないことにはならないし、役に立たないというわけではない。
 たとえば「コップ一杯の水」はあくまで、そう呼んでいるだけで、そこに絶対的な存在として存在すると考えるのは適切ではない。それはあくまで「コップという容器の中に水という液体が入っている」という状態を示している。その状態は、私たちが水を飲むのに便利であり、元々なかったある特定の状態を私たちの都合に合わせて作り出したものである。
 人間の関係も、それ自体はそこに存在しているものではなく、液体と同じように流動的で、それをどのように整え、役立てるかは、まさに私たちの「想像」に基づくところなのである。

 割れたコップは使えない。割れたコップを使って「コップ一杯の水」を作りだすことはできない。
 「私たち」という感覚は、実のところ、絶対的に存在するものではなく、全てのコップと同じように、誰かが意識して作り上げた観念であり、道具である。当然、それもまたコップと同じように、容易に壊れるものでもある。

 誰かと精神的に手を繋いでいるように「想定する」こと。それが「私たち」という語の意義である。
 
 「文章を読む」ということは、解釈のひとつとして「手を伸ばすこと」であると考えることもできそうだ。で、あるならば……ものを書くということは、ある意味では「手を伸ばす人全て」に手のひらを見せているということなのかもしれない。
 同時に、読まれる文章は必ず読み終えられる。その時点で、必ず手が解ける。それは一時的な繋がり、一瞬のぬくもりなのかもしれない。

 「私たち」という言葉は面白い。その語からは、なぜか小さな孤独がにじみ出てきている。

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