死にたかったあのころの私に

私はあなたに言えることなんて何もない。本当に、何もないと思う。
なら何も言うなという話だ。うん。だから今まで……

ただこのたびは、くだらない遊びということで、あなたを、つまり私の過去を、おもちゃにしてしまおうと思う。許してほしいなんて思わない。そもそも許すとか許さないとか、どうでもいいことじゃないか。私たちにとって。

あなたにはきっと、許せないことがたくさんあったことでしょう。そして誰よりも、あなた自身を許せなかったことでしょう。私はあなたを許す、なんて陳腐で馬鹿げた劇的なことは言わない。くだらないフィクションみたいな、そんな安っぽい言葉で許されるほど、あなたの苦しみは、私の過去は、軽いものではなかった。
あぁ。どう表現すればいいかな。私は、あなたを許すとか許さないとか、もうそんなことはどうでもいいと思ってるよ。あなたが死のうとしたこと、それは必然だった。そうするしかなかった。私は知ってる。あなたがどれだけ苦しんできたか。いや、きっとその大部分は忘れてしまっているのだろうけども、でもやっぱり、あなたは、あなたが死のうとして当然だと思えるくらいに、苦しんでいたのは本当のことだと思う。あなたは、死のうとしてよかった。死のうとしなければならなかった。
もしあなたが、まだ死に立ち向かってない頃の私であったなら、私はただ、残酷に、何も言わず、立ち去ることしかできない。あなたを癒してあげたい、とは思わない。
私があなたを癒そうとしたって、あなたのその苦しみは、不幸は、ただ長引くだけだから。
あなたは一度、死に近づいてみるしかなかった。それが一番、善いことだった。私たちの稀有な運命にとって、自殺というのは、避けては通れない道だった。
もし私たちが死というものを身近なものとして感じたことがなかったのならば、きっと私たちは、何事につけて、自分自身に負い目を感じていたことだろうと思う。自分自身のことを疑い、嫌い、厭い、罪深い存在だと思わずにいられなかったことだろうと思う。
もし、一度も死のうとすることもなく「死んではいけない」とか「自殺は絶対にダメだ」とか、そんなことを思いながら生きていたとすると、私はきっと、人生をずっと、息苦しるしくて、耐え難い、苦役のようなものとしてしか感じられなかったことだろう。年老いて死ぬ時も「あぁやっと死ねる」なんて、くだらない、ありふれた安堵の中で終えることしかできなかったことだろう。

私はさ、自分が、一番いい人生を歩んでいると思っている。自分に与えられた可能性の内、一番優れた人生を歩んでいると思っている。
無駄なことはたくさんあったよ。恥ずかしいこともあった。思い出したくないことなんて、数えきれないほどある。やんなきゃよかった、って思うような実験もたくさんあった。やっとけばよかった、っていう後悔だって、少なからずあるよ。それでもね、それでもやっぱり、私にはこの人生しかなかったんだと思ってる。この人生が一番いい人生だから、自分でそれを選んだんだって、私はそう思って生きている。
あなたは今、好きで苦しんでいるのではないと思う。どうにかして、その苦しみから逃れたいと思っている。分かるよ。それでいいんだ。逃げられるならば、逃げればいい。そしていつか、逃げられなくなって、立ち向かって、押しつぶされて、息ができなくなって、絶望して、その絶望が永遠かのように思えて、その永遠の中で、見えない夢、現実逃避、根拠のない希望、くだらない妄想、あるいは死に縋るような時間だけが過ぎ去っていくならば、あなたは必然的に、自分自身を変えるために、死のうとするしかなかった。それ以外に方法はなかった。
その証拠は、そのあとの私の人生が示している。私は、自殺未遂をしたにもかかわらず、誰からも助けてもらえない。もし自殺未遂をしていなかったら、もっと状況は酷かったと思う。ずっと誰かからの、心のない言葉に怯えながら生きなくてはならなかった。自分自身の言葉に苦しみながら、救ってくれる言葉も想像できず、全ての期待は絶望に代わり、あぁ、時間だけが無意味に過ぎ去っていく、そんな人生を歩むことになっていた。
私は死のうとするしかなかった。絶望的なほどに、私の人生は、私の未遂後の人生は、私の行動の正しさを証明している。悲しいほどに、悲しいほどに、私は賢い人間であり、正しい人間でもあった。あぁ。私が間違っているならば、私の間違いを誰かが示してくれればよかったのに!
悲しいことに、明らかになるのは、私の苦しみや覚悟が、正しかったということだけだ。私の悲しみや、絶望が、嘘や妄想ではなく、私にとって、たったひとつの現実であったということなのだ。
だからこそ、だからこそ、なのだ。私の人生はいつも、苦しみとともにあった。悲しみとともにあった。だからこそ、私は、誰よりも深く、強く、たったひとりでも、喜ぶことができる。人生を、味わい尽くすことができる。あぁ。私の人生は、悲しいほどに、絶望的なほどに、私だけのものなのだ。私だけのものだったのだ。
誰も、私に触れることはできなかった。誰も、私を否定してくれなかった。肯定も……全部薄っぺらな、表面的なものばかりだった。
私を救い出せるのは私だけで、周りの人間はみんな、薄っぺらだった。私の深さを理解し、そのどろどろに濁った感情の沼に手を突っ込んで宝物を引っ張りだすことができるのは、私自身だけだった。あぁ。そのために私は、あの夜を超えたのだ。あの日々を、生き抜いたのだ。
人生がいかに絶望的か。人生、それ自体が、どうしようもなく、絶望的で、無意味で、苦しくて、悲しくて、救いようのないものなのだ。だからこそ世界は美しいし、希望に満ちている。あぁそうだ。私たちが、自分の意思で、希望を見出さなければならないのだ。
希望は、待っていたって訪れたりはしない。自分の力で、それを望み、願い、形にしなくてはならない。それ以外に方法はなかったのだ。
あぁ。自分の愛しているものだけが、自分自身を慰めてくれるのだ。他人はみんな醜いかもしれないが、だからと言って、あなたが醜いわけではなかった!
あなたの苦しみは美しかった。あなたの悲しみは美しかった。私の人生は、過去は、全て、意味のあるものだった。誰が何といおうと、あなたがそれを否定しようと、私は今、それを信じて生きている。
それを信じなくては、生きていけなかった。

そうだ。あなたが死のうとしたのは、それを信じるためだった。自分の苦しみや悲しみが、死と隣り合わせのものであることを証明するためのものだった。
あなたの、人生と命をかけた賭けは、成功したんだ。その先で私は今も苦しんでいるけれど、でも、私はまた、何度でも、サイコロを振ることができる。
何度でも! 何度でも、私はこの価値のない自分自身の命と人生を、価値ある結果のために、喜びのために、賭けることができる!

それでもあなたにとって人生はくだらないか。つらくて、救いようのないものか。そうだろう。私は知っている。それでいいんだ。
くだらない人生? つらくて、救いようのない人生? 希望のない人生? だからどうした! だからと言って、その程度で絶望できるほど、私の苦しみは、小さなものではなかったぞ!

私がどれだけ苦しんできたか、あなただって分かってるはずだ。あぁ。人生は苦しい。苦しくていいのだ。

それが私の幸せなのだ。


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