冷たい夜に

 夜に冷たさを感じた。冬が近づいてきたな、と思った。
 女性がひとりで夜中を普通に歩いていられるのは日本だけ、みたいな話を前に聞いたことがある。犬の散歩をしている人とすれ違った。犬は立ち止まって私をただじっと不思議そうに眺めていた。知らない人の家の垣の上に猫が座っていて、そいつも私をじっと見つめていた。監視、というより、温かく見守ってくれているような感じだった。あるいは、仲間? 分からない。
 冷たい夜だ。街灯のない場所に住んだことはないのに、まだこの灯には慣れた感じがしない。夜はもっと暗いものだという体の底の感覚がまだ残っているのは、きっと私の人生が私だけのものではない証拠なのだろう。私の中に、ちゃんと遺伝子なるものが生きている証拠なのだろう。そう思うと、先祖に手を合わせたくなる。
 子孫繁栄という願いの先で生きている私。誰かの愛の繋がりの積み重ねによって生まれた私。両親だけじゃなくて、祖父母だけじゃなくて、何十代、何百代と繋がっている、命の連鎖を思うと、私という存在は確かに神秘的で、誰かが望み続けた存在なのだと感じる。誰かが「生まれて欲しい。生きていて欲しい。さらに、大きく広がってほしい」と願った存在なのだと感じる。生の声。
 冷たい夜だ。こういう日は、いつも熱を持っていて、何もなくても汗ばんでしまうこの両の手の性質を喜ばしく思う。寒い日だけは、さらさらに乾いて、触っていて心地いい。普段べたついているからこそ、こういう日の「普通の触り心地」が気持ちよく感じる。この手がいつか、愛する人の頬を撫でることを考えて、その練習にでも、自分の頬を撫でると、自然と脳はうっとりとする。そんな自分の姿を向こうから歩いてくる人は見るのだろうか? 見るのなら、それに美しさを感じるのだろうか? もしそうなら……それはとても喜ばしいことだ。変に思われたとしても、私の知ったことではない。私はただ自分のためにそうしただけ。自分の乾いた手を自分の頬にあてて、その体温を感じただけ。自分自身の温度を感じて、気持ちよくなっていただけ。
 夜の神社は好きだ。何かが出てきそうな雰囲気があるからだ。でも何かが出てきたことは一度もないし、それどころか、ここは妙に落ち着いていて、逆に、あらゆる不気味な神仏の類は入ってこれない安全地帯のように感じられる。純度百パーセントの、人間性の空間を感じる。神は死んでしまったけれど、神の家は残っている。それは今、人間を守るために存在する。のだとすれば、その感覚も間違っていないのかもしれない。
 なんて罰当たりなことを考えても、風は気持ちいいまま。虫たちはその合唱を通して私を肯定する。私の無礼を罰する「何か」は、私の健康によって、その非存在を示していた。あるいは、私が無礼だと思うことは、彼らにとって無礼ではないのかもしれない。私はもしかすると、彼らに十二分に敬意を払っていることになっているのかもしれない。もちろん、私はそこにあるものを蹴ったり、軽く扱ったりはしない。それに、かつて神が生きていたことを、存在していたことを、私は信じている。もしかすると、それだけで十分なのかもしれない。
 私はきっと、誰かにとったら信心深い人間なのだろう。時々、特徴的な祭服で何時間も踊り続ける夢を見るから、私は昔神事を司る人間だったのかもしれない。あるいは、私の先祖が。ありえないことだけれど、いきなり背の高い誰かがやってきて「お前には今日から私たちの神を祀る神官をやってもらう」と言われても、何の疑問もなくついて行って言われた通りにするだろうな、と思う。私は、人間より高いところいる存在のことが好きなのだ。それを称えている時だけは、自分自身のいい部分も悪い部分も全て忘れて、ただ「何かのための自分」でいられる。この粘着性の「自分」から、一時的に離れることができる。

 きっとこの時代の多くの人は宗教を欲しがっている。私だってそうだ。でもきっと、私は信徒というよりは、聖職者であり、場合によれば、教祖に近いのかもしれない。
 私は、私自身の神を欲しているから……神の不在……神の不在連絡票。
 神様、とりあえず不在連絡票置いておくので、お手数ですが、もし戻られたら信仰心の再配達手続きをよろしくお願いします。かしこ。

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