自分を一個の機械として捉える

 唯物論的な解釈は、人に不気味さを感じさせる。
「神はおらず、精神なる実体もなく、私たちはしょせん物質に過ぎない。それまであると信じられてきたものは、全てまやかしであり、誰かのついた嘘である」
 私はこの考え方に、長い間拒否反応を示してきた。
 「その考え方は確かに否定できない。でも、気持ちが悪いから、支持する必要も理由もない」と思ってきた。
 しかしある日を境に、私はこの極端な唯物論が、私の中の世界像に、あるべき姿形を持って組み込まれ、全く不快に感じなくなり、それどころか、その空虚な思想が、急に色鮮やかに感じられるようになったのだ。

 私は人間を機械のようなものだと思っている。私自身のことすら、自分のことを認識し、複雑なことを考え、たくさんの不具合を起こす謎の機械、だと思っている。機械の内側には何もない。あるのは歯車だけだ。だが……私の本質は、私の内部にあるニューロンだとか細胞だとかではない。それは、自宅にあるそこそこスペックの高いデスクトップPCの本質は電子チップや電流にある、と言っているようなものだ。間違ってはいないが、あまりに乱暴だ。それは単なる「下手くそな説明」であって、現実を一切表していない。ただ「コンピュータは魔法によって動いている」に対する反論としては有効だ。私の言わんとしていることは伝わっているだろうか? コンピュータは、もうすでに私たちの理解の及ばないものになっており「しょせん機械じゃないか」と言うことができなくなっている。

 単純なものからは複雑なものは生まれない、というのは嘘であり、いやむしろ、その単純なものの積み重ねが、複雑なものを作り出し……そして、そもそも複雑なものの本質は、その材料となった単純性にあるのではなく、むしろその単純性自体が、来るべき複雑性のための準備として存在しているのだとしたら?
 人間の本質が、物質にあるのではなく、物質の本質が、人間を産み出すために存在しているのだとしたら? もっといえば、まだまだ単純である人間という存在が、もっと複雑な存在を産み出すことを目的に存在しているのだとしたら?
 私というこの複雑な機械の本質は、もっと美しく高度なものの材料になることだしたら? もしそうであるならば……世界は一気に、可能性に開かれる。人間の可能性もそうだし、人間外の可能性もそうだ!

 物質は、私たちにとって軽蔑すべきものだ。それは構造的に私たちより下位に位置する存在であるからだ。私たちの存在の前提となる存在であるからだ。

 私たちが物質でできているということが、私たちの尊厳を奪うわけではなく、むしろ私たちの尊厳が、物質の存在を尊厳の場所まで高めるのである。

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