楽しみと自己アピール

全てがそうだとは言いきれないが、私たちが「楽しい」と感じることのその理由の多くは、それが他者へのアピールになるからである。

たとえばゲームなんかがとても分かりやすい。あるゲームを楽しんでいる時に、誰かが「そんなゲームをやったって何の意味もない」とか「そんなゲームをやってる人間はろくやつじゃない」とか、そういうことを言うと、私たちはこれまでと同様にそれを楽しむことができなくなる。

逆に言えば、そのゲームをクリアしたことを褒めてくれる人がいたり、他の誰かが熱中してそのゲームをやっているところを見ていると、私たちのゲームへの楽しみは再燃する。それはつまり、楽しさを感じるということは、私たちがそれをやることに「意味がある」と思っている証拠なのだ。ここでいう「意味」とは「他に対する自己アピール」ということだ。

ちなみに読書や勉強もそうである。おそらく研究やスポーツもそうであろう。その価値を認めてくれる人がいるから、私たちはそれに「楽しい」と感じる。逆に、その価値を認めてくれる人がいなかったり、あるいはそれが逆の価値、つまりある種の「劣等性」のようなものであると主張され、多くの人に信じられた場合、私たちはそれを楽しく感じられなくなる。

それほどまでに私たちの「楽しさ」と「虚栄心」は強く結びついてしまっているのだ。


これまでの男性が楽しく思うことと女性が楽しく思うことは異なっていた。社会が求める「優越」という点が異なっていたからだ。
女性はおそらくそれまで、いかに家事を素早くこなし、いかに男性を精神的に満たしてやるか、という技術にかけて競っていたし、それに楽しみを覚えていたことだろう。

だがこの時代において、男女平等が叫ばれ、少なくとも義務教育の間は男も女もそう変わらないものを求められる。その結果、私たちはたいてい似たようなものに楽しみを覚えるようになり、同時に、成長していくにあたって、理想だけではどうにもならない部分や、古くから染みついた「男性的」「女性的」と言った本能が、私たちを惹きつけるようになる。

着飾ることに楽しみを感じたり、より美しい自分になることに楽しみを感じるようになる。

自分の能力を他に示そう、誇示しよう、という欲求が弱くなる。そういうものが、異性や社会へのアピールに繋がらないことに気づいてしまうからだ。

ちなみにそれは、男性の側にも言えることでもある。女性はそれまで男性に収入や支配力を求めていたので、男性はそれを手に入れるために役立つ技能や立場を手に入れることに楽しみを覚えていた。
だが現代では、家事というものの負担が機械化によって小さくなったせいで、女性にとって家事が「難しくて価値のある、男性に対する大きなアピールポイント」ではなくなってしまった。誰でもできることに変わってしまったのだ。
その瞬間に家事は楽しくなくなるので、楽しくないことを自分に押し付けてくるような男性もまた、女性にとって魅力的でない存在に変わってしまう。
ゆえに、男性は家事ができることがひとつのアピールポイントに代わり、男性が家事に楽しみを覚えたりすることも、極めて自然な流れとして成立するようになった。

料理が楽しいのは、その料理が人を楽しませ、自分の価値を認めさせられるからである。同時に、家事に楽しみを覚えるのは、それが自らの人間の有能さを他に示すからなのだ。

そういうわけで私たちは、この時代において「誰でも簡単にできること」は楽しくないし「誰も価値を認めてくれないこと」も楽しくないというわけだ。


で、楽しく生きるコツという話をすると、結局は自分に自信を持って難しいことに挑戦していく、ということになってくる。そして「自分に自信を持つ」というのは言い換えれば「他者を信頼する」ということでもある。
自分を見てくれている人が、自分自身のやっていることの難しさを理解して、評価してくれる、という信頼こそが、自分自身への自信と密接に結びついているのだ。

ただ「できる」だけというだけでは、私たちは楽しくない。それが自分自身、あるいは他者の役に立つ、ひとつの価値ある能力である、ということが、私たちを楽しくさせる。

同様に、他者のいない世界で生きることが、なぜ私たちにとって楽しいかと言えば、あらゆることが、あらゆる行動が、私たちが生きるのに役立つからであり、生きるのに役立つことができるということが、私たちの生物としてアピール材料に変わらざるを得ないことを知っているからである。

「こんなに厳しい環境で生き抜いてきた」
全ての苦労がこのひとつの証拠を作り出す意味に変わるので、私たちはひとりきりで生活したり、他者に頼らず別の道を歩くことに、楽しみを感じるのだ。


実のところ、自分の価値をアピールするということは、他の価値を貶めるということにはならない。アピールとは戦いというより、戦いを避けるための試みなのだ。

スポーツにおいていえば、「勝つ」のが楽しいのではなく「活躍する」のが楽しいのだ。「勝つ」のはあくまで見てもらうための手段であり「負ける」ということがすなわち、アピールの失敗を意味することではない。
どんなスポーツもそれを楽しめている人たちは、それがどのような結果をもたらしても自分たちの高い運動能力を示すということを知っているので、恐れよりも楽しみや喜びの方が強くなる。
自分より運動能力が高い人がいたとしても、それによって落ち込んだり、楽しみが小さくなったりはしない。自分の運動能力が、それだけで十分すぎるほど生物としての優越を誇示できると分かっているからこそ、ただその場における全力を尽くすこと自体に楽しみを見出せるのだ。
ちなみにこれは、練度の高い軍隊にも言えることだ。


他のアピールを見た時に反感を覚えたり、あるいは他の価値を損ねることをしたり言ったりすることによって楽しみを感じるのは、その人自身のアピールがうまく行っていない証拠であると言えそうだ。自分よりうまくアピールできる人間を貶めることによって、相対的に自分の価値を高める、という低級なアピール手段なのかもしれない。それは、誰かに対してはっきりと分かる優越の点を保持していない人間に許された最終手段なのかもしれない。

そしてそういう「浅ましい楽しみ」「負け犬の楽しみ」に関しては、誰もが寛容になるしかない。スルーが一番、というわけだ。集まってぐだぐだうだうだ言っているといい。


流行を追う楽しみも、虚栄心から来る楽しみであると考えれば筋が通る。

あと、自己アピールというのはひとりにつきひとりでなくてはならないものではなく、複数あっていいし、たいていは多ければ多いほどいいので、流行を追うのが好きな人のことを「流行を追う以外のことで自らの自己アピールする手段、つまり個性を持っていない」と決めつけるのは、短絡的すぎる。そういう人もいるかもしれないが、大半は、単なるおまけとして流行を追っているし、軽い気持ちでそれを楽しんでいる。
それに関しては、敵意を持つのは狭量というものだし、自分がそれに対してうまくついていけないなら、恨まず、自分の楽しみに集中すればいい。
流行への批判は控えた方がいい。それは発言者の無能力や悪徳が明らかになる原因になることがあまりに多い。
流行に反感を持った場合は「なぜその流行はよくないか」と考えるのではなく「なぜ私はその流行に反感を抱き、悪口を言いたくなったのか」と考えた方がいい。
流行が人を改善することが滅多にないように、流行が人を悪くすることも同様にあまりない。流行というのは過ぎ去り忘れられていく定めにあるからこそ、それがどれだけ奇妙で不快なものであったとしても、気にするだけ無駄なのだ。(なぜそれが流行ったか分析してみることには意味があるにせよ)


おそらく私が文章を楽しく書き続けている最大の理由は、それが私にとって一番の長所であることを自覚しているからだと思う。
そして私が文章を書くことにおいてもっとも強く苦痛を覚える点は、この時代の人が私の言っていることを全然理解することができないかもしれないということや、この時代の人たちが評価する文章は、そのどれもこれも、私の書けるものとは異なるものなのかもしれない、ということだ。
つまり私の他に対して優っている点が、優っているわけではなく、むしろ劣っている点として見做される可能性があることに、私は強い不快を感じる。

ともあれ私は、これでもけっこう普通の虚栄心を持っているし、他の反応を気にしている。
ひとりの動物として、自分の知性や知識、認識の正確さや誠実さという点を、評価してほしいと思っている。

同時に、この社会にうまく溶け込めず、義務も果たせず、努力もできず、同じ意見を持てず、流行にもついて行けない、そういうあまりに多くの弱点を抱えた人間だからこそ、自分にできる数少ないことに、大きな楽しみを感じるのだろう。
それくらいしか、他に誇れる点がないから。(と言ってもこれらの弱点は、この時代この地域という特定環境下における弱点でしかないと私は思っている……)


私たちの楽しみはほとんど空しい。自己アピールが、自分自身の利益に結び付くことはあまり多くない。
男子中学生が自分がどれだけゲームが得意か女子にアピールしたって、たいていは「ふーん。それで? 勉強しなよ」としか思われないのと同様だ。
学歴や収入のアピールも、多くの人間から尊敬されたり、あるいは飢えた異性から求められるのには役立つが、それ以外にはあまり役に立たない。たとえば学問やビジネスの世界で自分の大学の名で誇ろうとしたら、ただ失笑を買うだけだ。「そんなことより仕事進んでますか?」なのだ。


ただ冷静に考えてみれば、私たちが何らかのアピールポイントを持っているならば、アピールなんてしなくても、自分がある特定の趣向をもった他者にとってはたまらなく魅力的であることは至極当然であるし、それに不安を抱いてアピールしなきゃと思う必要はないのだ。
つまり自然に、自分のやりたいようにやっていればいい。それに、そういう自然体もひとつのアピールになるのだ。何のアピールかと言えば、自信や自立心、個性といった、もっとも普遍的な優れた人間の最低条件としての、アピールだ。

虚栄心が強い人間ほど、その虚栄心自体が、虚栄心を満たす邪魔になることが多い。
どっしり構えて「どうだ。私は素敵だろう?」という顔をしていた方が、楽だし、ものごとをうまく運ぶことができる……と私は思っている。
ただ私自身がその点けっこう欲求不満になってるので、もっと別のやり方のほうがうまくいくかもしれない。お好きにどうぞ。

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