この過剰な共感性、あるいは理性

 共感性というものがどのように育まれ、どのように私たちに利するのかは分からない。本来共感性は、他者と協調して生きるのに役立つはずのものであったが、なぜか現代社会においては、共感性の過剰が他者との間に壁を作る。相手のことを理解してしまうからこそ、理解したくないと思うのである。

 この奇妙な宿命をどうほぐせばいいのだろうか。自分の感情でないものを自分の感情であると捉え、他者と自己の間に明確な境界線を引かないこと。自分と似た人間を空想し、それを文章の中に表出できる、ということ。

 これは私の勘であるが、共感性のトリガーは強い感情のシンクロにあると思う。誰かと何かを一緒に楽しみ、喜び、最高度の幸せを感じ、同時に、誰かと何かを一緒に苦しみ、一緒に悲しみ、最高度の絶望を感じる、という経験が、それを育てるのだと思う。
 私は幼少期、いろいろなことをさせてもらった。友達も多かったし……冷静に考えてみれば、親友と呼べるような人も、多かったように思う。何でも話せる相手が多かった。体と心の両方を近づけて、共に全ての喜びを分かち合う、ということを多くの人としてきた。彼が泣いたとき、私は彼の手を握った。彼の手の震えが、私の手の震えになった。
 誰かが私をくすぐったとき、私は悶えながらその人をくすぐった、その人も、悶えた。私たちは笑いあいながら、幸せと喜びを分かち合った。それを、幸せや喜びだと自覚する必要もなく、私たちは魂が繋がっていくのを感じていた。

 自分というものを認識しようとしたとき、なぜか思い浮かぶのは私自身の顔や体ではなく、私が接してきたたくさんの他者なのだ。喜びであり、悲しみであり、尊敬であり、嫉妬であった。

 私の人生は、どうしようもなく孤独であると同時に、たくさんの鎖で繋がっていた。それは私たちが、互いの合意に基づいてなされた握手であった。私たちは手を握り、抱き合い、キスをして、そして別れていった。
 全ての時間が美しかった。全ての時間が喜びであった。一番悲しかった時でさえ、それはひとつの祝福として、私を一番底の部分から温めてくれていた。

 私は自分の人生を豊かだと感じている。豊かだったと感じている。その豊かさがもたらしたこの共感性が、私を苦しめ、悩ませたとしても、私はそれを受け入れ、それと共に生きていくことを誓っていた。

 私は人間を、他者を、愛していたのだ。それはもう、どうしようもないほどに。

 見捨てられないものを見捨てようとした。繋がりが断ち切られたのに、何も感じることができなかった。その感覚と現実のギャップが、私の心を引き裂いた。

 私たちはもう繋がっていないのだと感じて、その残熱に縋りついて。そこに、何か大きなものを求めて。そこに、何かの意味を求めて。

 あの日の幸せや喜びすら、忘れ去って、今を生きていこうとしてしまうことが、悲しくて仕方がないのだ。過去が叫んでいる。「置いて行かないで」と。

 こほん。咳払いをする。私は理性的な人間でもある。私の理性と私の感情は、和解し、互いを尊重し合っている。だから感情は道を譲り、今は理性が私を動かしている。

 過剰な共感性は生きるのに役立たない。記憶力も同様である。実のところ、理性や認識も同様である。

 たとえば、男性が女性の裸を見た時、その皮膚の裏側にあるものを想像し、それを現実として認識した場合、性的興奮を得ることが難しくなる。それは理性的な認識、正しい生物学的な知識と、感情的に正常な感覚、赤くドロドロしたものを気持ち悪いと捉えてしまう本能のミスマッチである。
 男性にとっての性的興奮の要は肌にある。肌が美しくない場合は、美しい肌を想像することによって、それを補おうとする。いずれにしろ、それは表面であり、理性を一時的に鎮める行為である。それは理性と感情が共謀して行う、その人自身が必要とする、自分への「嘘」である。

 生物はたくさんの能力を持てば持つほどに、それらが互いに邪魔をしあうようになり、それを解きほぐすには、殺すか、あるいは嘘をついて一時的な平和をもたらすか、そのどちらかしか選べなくなる。
 内臓を視覚的に気持ち悪いと思う感情を殺すか、あるいは表面を想像して別の感情をもたらすか。いずれにしろ、求めるのは平和だ。私たちは、嘘によって一時的な平和をもたらすか、殺すことによって長く続く平和をもたらすか、そのどちらかを選ばなくてはならない。より高度なのは、前者である。それに、たとえ後者を選んでも、必ず争いがその先にある。私は、敵を殺すことを推奨しない。共に生きる方が、より高度であり、より価値のある生であると、私は思っている。憎んでなお、笑顔で握手し、相手を害しようと考えないこと。そういう嘘を、私は高貴であると捉える。安心するために、相手を殺そうとするのは、低劣なことであると捉える。下賤であり、厭うべきことであると捉える。

 より多くのものを持って生まれてきたということ。それすなわち、より多くの障害を持って生まれてきた、ともいえる。より多くの病気を持って生まれてきた、と言ってもいい。そういう豊かさの結果に、私はある。

 後天的に獲得したものも、それに含まれる。より多くの感情を知っているということ。より多くの理念や、思想を知っているということ。それは互いに争いあい、その人間の体を引き裂こうとする。それを繋ぐのは、美しい嘘。それは必ず解けてしまう宿命にあるからこそ、美しいままでいられる。
 鎖で繋がれた二人は、互いに憎みあう。握手で繋がった二人は、互いに愛し合う。愛し合えなくなる前に、手を解くことができるからだ。

 私は、自分の理性だけが優れていたら、もっと楽に生きることができただろうと思っている。もし私に、これほど優れた共感性や感情が備わっていなければ、それを手に入れるだけの幸運な経験が訪れていなければ、私はきっと、単なる優秀な一個人として、社会の役に立つことができたことだろう。いろいろなことを割り切って、日々を楽しく価値あるものとして過ごすことができていただろう。
 自分の理性が優れていなくとも、それは同じことだった。優れた共感性と感情だけを持っていれば、私は今みたいに自分を冷静に分析する必要なく、ただただ誰かを愛し、その人のために生きることができたことだろう。いちいちそれに意味や価値を見出そうとせず、その場その場の自分と他者の感情のために全力を尽くすことができたことだろう。優しい嘘のことを、嘘だと思わず、全ての言葉は、人を動かす限りそれが全て真実であると、信じようとする必要もなく信じて、それと共に生きていたことだろう。人間を信じて、神を信じて、来世を信じて、明るく幸せに生きることができたことだろう。

 私は、片方さえあれば幸せになれるものを、両方とも手に入れて生きている。二つの幸せがぶつかった結果、そこには混沌とした黒いドロドロが産まれた。それは苦しみであり、痛みであり、絶望でもある。

 私は人のために生きることを、無意味な嘘だと感じてしまう。私自身のために生きることも。
 私は理性に従って、ただ認識することに喜びを感じ続けることに、空しさを感じてしまう。寂しくて、胸が締め付けられる。

 私は、私の体と人生をもってして、これでも生きていけるということを証明しなくてはならない。これでも、私は人生を楽しみ、喜び、愛し、高めていけるのだと、私の生き様をもってして、示さなくてはならない。

 私の人生は幸せでもなければ偉大でもなかった。だとしても、私の人生は、まぎれもなく、人間として、正しい人生であったと思いたい。「こうでなくてはならなかった」と言い切れる人生であってほしい。

 私の頑固な理性と感情は、その点でだけは一致しているのだ。私は、生きていかなくてはならない。それも、私自身が私自身であることを認め、許し、そうであるべきだと定めたものとして。

 苦しい人生だ! されど、価値ある人生だ!

 きっと、君の人生も、そうなのだろう。
 でもそれは君が考え、君が求めるべきものだ。
 私はそれについての言葉を持たない。

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