怠惰の悪魔と未熟な私。踊るしかない私は道化にもなれない。

 そこに、ボロボロになって倒れている少女がいる。髪は綺麗だ。だが肌は荒れている。唇は紫色で、小刻みに震えている。手首は赤くはれているが、傷はない。両手の親指の付け根には歯型。静かに涙を流している。でも髪で隠れて、その目がどんな色をしているのかは分からない。

「私は頑張った」
 頭に響くのは、彼女の声。
「もう、動けない。精一杯やった。私はずっと、全力だった」
 それを否定する人間は誰もいない。
「もう、休んでもいいよね?」
 返事をする者はいない。彼女にこれ以上頑張れと言えるほど強い人間はいなかった。
「ねぇ、なんで誰もいないの?」
 返事をする者はいない。彼女を抱きしめられるほど勇気のある人間はいなかった。
「ねぇ、私、こんなこと望んでなかったよ……」

 私は今でもあの時のことを覚えている。そして、私自身が、そちらの方向に引っ張られていることも自覚している。
 努力には奇妙な陶酔がある。それも、限界を超えた努力と、その先にある自滅にも。

 絶望的な戦いの中には、奇妙な喜びがある。言葉を超えた何かがある。しかしそれは……


 今でも時々、そういう誘惑を感じることがある。あらゆる弱さを自分に禁じ、理想的な自分を演じること。誰に対しても誠実で、実直で。努力を厭わず、常に全力疾走。誰もが……驚嘆せずにいられないような生き様。そういうものに、憧れる気持ちがある。そうなろうとして、その結果破滅したいという、そういう願望。
 そう。私は、完全にそのような存在になることはできず、そうなろうとすると、必ず先に肉体が壊れ、私は破滅する。ボロボロになって、完全に壊れ、二度と、ひとりで立てなくなる。そうなった先の人生が、どうしようもなく明るいような気がして……誰もが「あなたは頑張ったよ。もう頑張らなくていいんだよ。二度と」と言わざるを得ないくらいボロボロになった、そんな私に憧れる。
 目標に至ることも、成果を残すこともできず、その道中でどうしようもなく肉体の限界を迎え、二度と元に戻らないくらい傷ついて、意識も混濁して、体も欠損して、誰もが私を愛さずにいられないような、そんな体と心になって、そして……何もできず、死に至るという、そんな夢。そんな、願望。そんな、絶望的な、希望。


 捨てたと思っても、ことあるごとに思い出し、私を誘惑する。
「こっちに来い。それがお前の道だ」
 悪魔が私を呼ぶ。努力の悪魔だ。努力と、破滅の悪魔だ。
「お前は人に愛されたがっている。人から愛されるためには、誰よりも優秀となり、そして誰よりも悲惨な運命をたどらなくてはならない。ひとりで幸せになれる人間は、誰にも愛されない」
 悪魔は嘘つきだ。悪魔はただ……欲望に忠実なだけだ。こいつは、ずっと昔から私の心臓に鎖をかけている。私はこいつを殺したつもりだった。だが、死んでなどいなかった。

「お前は努力すること、成長することが好きだ。だが、努力の先にも、成長の先にも、お前の望む未来はない。分かるだろう? お前の望む未来は、愛されることだ。愛され、報われ、許され、そして死ぬことだ。そしてあらゆる努力が報われる瞬間というのは、それがどうしようもなく失敗し、それが慰められた時の、あの幸福だ。そうだろう? お前の努力は、今まで……何の意味もなかった。そうだろう? お前が頑張れば頑張るほど、周りの人間はお前の努力ではなく、お前の才能を褒めた。お前という人間の能力を褒めた。お前の意思も、お前の我慢も、お前の忍耐も、お前の愛情も、人は少しもみようとしなかった。お前が本当の意味で優れた部分を、周りの人間は少しも見ようとしなかった。そうだろう? そうだろう? だからお前は、破滅することを望むしかないのだ。愛されるためには、破滅するしかない。破滅することでしか、お前は愛されない。お前は破滅する定めにあるのだ。お前は努力し、努力し、努力し、そして力尽き、燃え尽き、誰もがお前の手を取り……お前は『立派な人間であった』と口をそろえて言う。そして、お前が二度と立ち上がれないということを、皆が同意する。もうお前は、お前の抜け殻でしかないことを、皆が同意する。そして、その偉大な抜け殻を、皆は宝物のように扱う。そうだ。お前は、誰かにとって、何の役にも立たない宝物のような存在でありたいのだ。しょせんお前は、そういう存在にすぎないのだ!」

 馬鹿なやつだ。そんなわけはないだろう。私の中にそういう部分があるのは事実だと思うが、それは単なる私の一部分にすぎない。私の爪垢を私の目の前に持ってきて「これがお前の正体だ」と言われたような気分だ。それは間違ってはいないが、正しくもない。それは確かに「私だったもの」ではあるが、それはあくまで「私の一部であったもの」に過ぎない。それも、一番端にあるものだ。私はそんなに浅い人間ではない。
 お前に何が分かる? 憂鬱と怠惰の悪魔め。

 お前に何が分かる……私にすら分からない、私自身の何が!

 馬鹿なやつだ。私は間違ってない。間違ってないんだ。

 私はいつになれば確信することができるのだろうか。自分が間違っていないということを。いつになれば、私は私に色々なことを言い聞かせる必要がなくなるのだろうか。
 いつになれば……私は私に「汝、死を選ぶことなかれ」と命じずに済むようになるのだろうか。
 いつになれば、私はこの人生を本当の意味でこの世界に投げ出すことができるようになるのだろうか!

 私は臆病だ。何をやっても中途半端だ。いつも途中でくたばってしまう。そのくせ、諦めることができない。できなかった。どうしようもなく、私は頑張ろうとしてしまう。私は、無謀な努力の先にある破滅以外の未来を選ばなければならないのに、その、安易な未来が、いつも私を誘惑する。その未来を選べば、誰も私を責めることができないから。
 私は、自分が誰かから責められるような未来を自ら選び取らなくてはならないのに、まだその勇気がない。誰かに憎まれ、恨まれ、それでもそれが私の人生であるとはっきり立って言える人生を歩みたいのに、まだその勇気がない。
 私はまだ、人と戦うことを恐れている。人を傷つけることにも、人を殺すことにも。私はそれができるようにならなくてはならない。そうでなくては、生きていくことができない。
 私はまだ、本当の意味で生きるということができていない。どうしようもなく私はまだ、生きているとは言えない。生きているという実感がない。私はまだ、生を予感しているだけであり、まだ生きているわけじゃない。まだ、真の意味で「生きる」ということが、私にはできていない。

 私はまだ、あまりにも未熟なのだ。私の人生は、まだ始まってすらいない。もしかすると……私という存在は、誰かの人生の前日譚なのかもしれない。私の人生に、はじまりというものは存在しないのかもしれない。私はあくまで、別の誰かのために存在しているのかもしれない。もしそうなら、どれだけ気が楽か……そうであると確信することができれば!
 私はどうしようもなく確信することができない人間なのだ。どうしようもなく、疑いと迷いの中でしか生きられない人間なのだ。

 信じられるものを探してきた。ずっと、信じられるものを探してきた。どこに行っても、何を見ても、私は「信じられない理由」ばかり見つけてきた。「信じられる理由」と「信じられない理由」を天秤にかけて、前者の方が重かったことは一度もない。あらゆるものは、信じるに値しなかった。

 信じるためには、自分に言い聞かせることが必要だと思った。その、信じているその瞬間、しっかり声に出して、祈ることが大事だと思った。だが、どうだろうか?
 結局私は疑っている。結局私は、ずっと「本当にそうだろうか?」の中にいる。

 本当は、何も信じていないのだ。私は。世界のことも、人類のことも、未来のことも。それを褒め称えていたのは、そうすると体が喜ぶからだった。結局私の体は、何かを信じていたいのだ。それが見せかけであっても、体は拒まない。拒むのは、私の強情な精神だ。

 私はどうせひとりぼっちだ。私はどうせひとりぼっちだ。私はどうせひとりぼっちだ。

 私はどうせ……誰からも愛されない。


 否定を求めて吐き出した言葉は誰にも届かず永遠の暗闇を進み続けている。


 伝わらないことに慣れきって、私はもう……何も書きたくなくなった。

 結局私はいつも迷っている。いつも悩んでいる。いつも決めかねている。いつも……

 私は、「今」間違っているのだ。間違い続けているのだ。
 「いつも」というのはしょせん「今」という意味でしかないのだ。あぁそうだろう? その通りだ。それは「今の私は」でしかないのだ。分かっている。分かっているんだ。分かったうえで、私はその中で溺れることを「今」選んでいる。

 忘れよう。全部。この世の全てを。残るものだけを信じよう。いらないものを全部捨てよう。余計なんだ。全部。全部。邪魔なんだ。
 捨てられるなら、とっくの昔に捨ててるよ。現実は、いつも私を追いかけてくる。だから私は、振り返って、現実を掴まえるしかなかったのだろう?
 現実というものは、しょせん幻想の一種に過ぎず、掴まえようと欲した人間にしか見えないものなのだ。現実というのは、見えなくて当たり前のものなのだ。現実というのは、一種の特殊な、認識の作用なのだ。

 それはあまりにも醜悪だから、私たちは……もっと美しいものだけを見ていたくて、いろいろな発明をした。
 でもそれに何の意味があるだろう? すべての発明の材料は、結局のところ、現実から強奪したものなのに。


 現実を見たことのある人間にしか、現実逃避というものが理解できない。そして私たちは、ある現実に向かっているとき、常にまた別の現実から逃避しているのである。私たち人間にとって、立ち向かうというのは、逃避の一形式に過ぎないのだ。

 そう。それは、現実から逃げ続けることに疲れて、振り返り、それを掴まえようとした私のように、本質的に、現実に向き合うというのは、そういうことなのだ。
 現実を打ち倒すことはできないから。だって現実というのは、どうしようもなく『私たちそのもの』なのだから。

 あぁ! どうして君たちは私の言っていることが分からないのだろう。どうして、これほどまでに、私にとって当たり前のことが、君たちにとってちんぷんかんぷんになってしまうのだろう! どうして私の言葉は、こんなにもはっきりとしていて、分かりやすく、優しいのに、誰にも届かないのだろう!

 私はしょせん哀れな道化か。それならそれで構わないさ。

 どうせ私には踊ることしかできない。 

 そうか。君にとって私の言っていることは当たり前でつまらないのか。だから、わざわざ何かを言う必要もないのか。そうだろう。それなら、そうだな。君は私から何も受け取るものはなかったというわけか。私は残念だ。君に対してじゃない。私自身に対してだ。

 もし私が、ただ、不幸なことに、思いあがっているだけなのだとしたら……私の言葉は、伝わっていないのではなくて、ちゃんと受け止めてもらったうえで、嘲笑され、侮蔑され、黙殺されているとしたら……私は、結局、その場合においても、哀れな道化であるというわけか。

 道化として生き、道化として死ぬ。それができたら苦労しない。

 その道は、拒む必要もないほど、私から遠く離れ場所にある。道化のように見えるということが、道化であるということではないのだ。私はどうしようもなく、道化のような人間ではないのだ。

 道化じみているだけで、道化そのものではないのだ。道化のふりはできても、道化になることはできないのだ。

 私は、私が何者なのか分からない。ただの奇形児だと考えるのが、一番楽なんだけど。


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