もしあの時代に『戦争に行け』と言われたらどうしていたか

 もしあなたが男性であり、1940年ごろ(日中戦争のさなか。太平洋戦争の開戦前)に生きていたとして、戦争に行けと周りの人間に言われたらどうしていたか?

 この問いに対して、現代を生きるあなたはどう答えるだろうか。
 そもそも、あなたはこれを考えることができるだろうか?

 もし私なら、という話をしよう。
 私はまず間違いなく、赤紙が届いたら、戦争に行くという判断をしたと思う。おそらく最前線に出ようとしただろうし、そこで敵兵を殺すことを美徳であると自分に信じ込ませただろうと思う。
 あの場において、そう考えないことは「臆病者」であり「利己主義者」であった。私は、己のプライドを固持するために、喜んで人を殺そうとしたことだろう。

 私の体がそれを拒むかどうかは分からない。気持ちではどれだけそうしたいと思っても、体が動かないという場合はある。そういう現象が自分の身に起こった場合、人を殺さずに済むかもしれない。その場合ならその場合で、私は自分を強く責めるであろうし、周りの人間に対して負い目を抱くと思う。

 認めたくないし、吐き気がするが、しかしこれが現実である。
 誠実に考えるならば、私はそのように生きていたと考えるのが自然だ。あの時代に生まれ育った場合、たとえどれだけその戦争に疑問を持っていたとしても、人道的な抵抗を感じたとしても、大きな流れに抗うことはできなかったであろう。
 少なくとも、今の私の年齢、つまり十代後半という立場と精神状態では、社会の方向とは逆の方向を向いて何かをするということはできなかったと思われる。(もちろん何か都合のいい出会いなり出来事なりがあればその限りではないが、そういうものも一切なく、典型的な『当時の日本の田舎』という環境で生まれ育ったなら、そうなってしまうのが自然だ)

 過去の戦争を否定することは簡単だ。それを二度と起こさないと誓ったり、鶴を折ったり、黙祷を捧げるだけなら簡単だ。だが、自分がその場にいることをひとつの現実として想像してみたり、その中で自分に何ができるか考えてみることは、とても難しいことだ。

 現代日本人は「あの過ち、戦争を忘れない」などと言いつつ、他でもないその戦争のことを、つまりその戦争の全体像や、歴史的な流れなどを、見ることも考えることもやめているように私には見える。

 そのくせ、黙祷だけは得意の同調圧力をもってして万人に強制する。この季節になるたびに、戦争の話をされるのはうんざりだ。全部見せかけであるように思えてならない。
 それが、自分自身の人生と密接に関わっている厄介な問題であるのだという意識がないのに、その問題に対して真剣に向き合っているような「ふり」をしている連中に、私は腹が立って仕方がない。

 私は戦争のことが分からない。知らないし、言ってしまえば、実のところ興味もない。あの時代はクソの塊で、学べば学ぶほど、気分が悪くなるだけだ。あの時代からは、学ぶべき知恵も気高さも美しい人間性も感じられない。
 負けた国からも勝った国からも、国家主義の悪臭が漂ってくる。私はあの時代が大嫌いだ。この時代も嫌いだが、あの時代よりははるかにマシだ!

 こんなことを言っても仕方がないのは分かってる。意味がないのも分かってる。

 私は日本人の歴史観が嫌いだ。ろくに学ぶ気のない態度が大嫌いだ。自分は学ぶ気もないくせに、人に押し付けてくるあの態度が大嫌いだ!

 あの時代から学ぶべきは、自分たちがいかにその時代の社会の色に染まりやすいかということなのに、連中はずっと変わらず年長者たちから教えられた「正しい思想」ばかりを語る! 疑うことを知らないのだ、連中は!
 何も変わっていないのだ! あの善人面した連中は!


 正直、こういうスタイルは私の趣味じゃない。その必要性もない。ただ私も感情に流されているだけなのだ。

 でも、時々はいいでしょ。こういう私も、一応私なんだから。

 ためらう。
 私はこんな強い語調で人を責めることのできるほど立派な人間じゃないから。
 難しいんだよ。言葉って。場合によっては、よく考えられた言葉より、感情に乗せた言葉の方が届くこともあるから。
 少し試させて。

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