自由意思なんていらない

 自由意思と言われても、私にはピンと来ない。私は日々、自分の精神が肉体に従っていることを意識するし、そうであるべきだとも思っている。精神が肉体を無理やり動かそうとすると、肉体が精神に復讐して酷い悪夢を見せるのも知っている。
 私はなぜ自由意思を素晴らしいものだと決めつける人がいるのかも、よく理解できていない。

 自由=よい 不自由=悪い
 という、偏見があるからかもしれない。実際、不自由の象徴は牢や枷だ。確かにそれらは私たち人間にとって不自由だから、その印象に引っ張られて「不自由=悪い」とし、その反対である「自由=よい」とするのは理屈の上では理解できる。

 私たちは、他者に操られたり、誘導されることをよしとしない。それは支配されるということであり、道具に成り下がるということでもあるから。本来対等であるべき存在から支配されることは、嫌なのだ。
 本来、支配することも、嫌なはずなのだ。

 だが私たちは、世界やこの肉体にはしっかり支配されているし、支配されているべきだ。

 私たちに完全な自由意思なんてない。あるべきでもない。世界からも肉体からも離れ、自分を引っ張るものは何もなく、ただふわふわと思考するだけなんて、おぞましい。そんな自由は、憎むべきものだと思っている。

 私は、不自由を望んでいる。

 言い方を変えれば、私は必然を求めているのだ。私の肉体と、この世界が、否応なく私の心を引っ張って、あるべき方向に向かわせることを望んでいる。そのように、動いていくことを、私は望んでいる。

 私たちの心が、電気信号の集まりであったとしても、その点は変わらないのだ。私たちは、何かに動かされている。そしてそれを、私たちは認識させられている。
 全て、必然に従って! 私たちのあるべき姿に従って。

 自由意思なんていらない。そんなものは必要ない。
 私は、私が世界や肉体から命じられたことを、私が選んだことだと解釈する。それを私は意思と呼ぶ。

 私は私の人生と肉体を否定しない。全て、私がそれを必然として許したものだから、私は、定められた私を受け入れ、その中で美しく生きるのだ。

 私には私の役割がある。そう信じている。
 そう信じるべしと、私は私に命じられているから。

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