小鳥と精霊 氷湖にて

 その湖は、氷湖と呼ばれていた。
 日食の今日、私は氷湖のほとりで静かに佇んでいた。薄暗闇の中、湖はまったく動かない。本当に、湖の全てが凍り付いているかのようだ。
 風がないのだ。どういう理屈かは分からないが、この湖の周辺ではすべての風がやんでいる。
「一緒に居たいんだよ」
 後ろから、透き通るような声が響く。その音が、ほんの少し氷湖の水面を揺らがせる。私が振り向くと、彼女は座っている私に手を差し伸べ、立つよう促す。
「風がないと、時間が消え去ったみたいに感じる」
「分かるよ。だから、踊ろう」
 彼女の言葉はいつだって、くだらない理屈を超えて、私の心に直接響く。美しい調べとなって……
「ここは地上の楽園なんだ。誰も知らない、私だけの場所」
 野暮な疑問は差し挟まない。ほんの少しの言葉で、この完璧な瞬間は壊れてしまうから。
「私とあなたは、小鳥と精霊のよう」
 彼女の美しい声に体を預けて。預けたはずの体が、自然と彼女の体をリードしていく。
「私の歌は、あなたの踊り」
「そうだ」
 口から洩れた同意の言葉は、大嫌いなはずのかすれた低い声なのに、それ以外ありえないと思えるくらい、世界のメロディーに調和していた。
「歌うのよ」
「歌うよ」
 彼女に足りない低い音を補うように、私たちは二人だけの歌を歌う。歌詞なんてものはなく、ただ魂が奏でる音を、口ずさむ。
「愛しているの。世界を」
「うん」
 私は、彼女に同意を与えるための存在であることに気が付いた。私は、彼女を土台から支える理性なのだ。
「大いなる祈りが聞こえるの」
「そうだね」
「祈りを求める声も」
「あぁ」
「そうして私はこの小さな声で……」
 そこで、音楽は止まった。言葉が繋がらないのだ。
「私は……この小さな声で?」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
 日食は終わって、あたりはもう完全に明るくなっていた。彼女はいつもの、無邪気で少女らしい笑顔を浮かべていた。
「素敵な瞬間だったね」
「あぁ」
 氷湖は相変わらず身動きひとつしない。山が、絵のようにうつっている。
「何も見えない時間だった」
 彼女はそう言いながら目をつぶった。私も、目をつぶる。頬に柔らかい感触があって目を開けると、彼女がいたずらっぽい顔で笑っていた。私は思わず彼女を抱きしめたくなって、掴まえようとするが、ひらりと交わされ、華麗にステップを踏みながら、森の中に消えていった。
 私はため息をついて氷湖の方を振り返ると、さっきまで身動ぎひとつしていなかった山がゆらゆらと揺れていた。

「小鳥と精霊、か」
 その声はもう、時間にとらわれていた。

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