己の中の客観的批判者が望むこと

 客観的批判者。

 私の脳の中に住んでいるこいつは、いつも貢献したがっている。しかし批判する人間は、いつも誤解される。批判する人間は、評価されない。
 私の肉体は、他者を批判することを嫌がっている。憎まれるのも、誤解されるのも、もっといえば、目立つことも嫌がっている。

 私がこうやって文章を投稿できるのは、私が安全圏に立っているから。自分の姿を隠して、ここで書いたことが現実に影響を及ぼさないように気を配っているから。
 私の肉体は、ただただ単純に、愛すべき人を探している。私の精神および客観的批判者は、己の役割を欲している。

 批判は基本的に余計なお世話だ。だから、実のところ、誰かが私に対して「自分の文章を批判してください」と言われたら、大喜びすると思う。大喜びして、好意的に、されど鋭く、批判をくわえると思う。
 私は言葉を選ぶことができるから、柔らかい言葉で、相手の誤りを指摘して、分析して、改善案を提示できると思う。

 私の中の「客観的批判者」はそれを望んでいる。私自身以外の個人を、好意的に批判したいと、そう思っている。

 攻撃的と言ったら感じはよくないけれど、アグレッシブと言えば悪く聞こえないんじゃないかと思う。
 「客観的批判者」は、そういう性格なのだ。攻撃したくて仕方がない。私はその武器を、上手く扱える。私は己の中の「客観的批判者」と和解できている。

 思い付きなんだけど「他の人の記事を批判してみたいけど、頼んでもいないのに批判されるのなんて嫌な人がほとんどだと思うから、私に批判してほしいって思う人がいたら、手を挙げてほしい!」みたいなこと言って募集するのはどうだろう。

 うーん……でも自分が客観的に他者からどう見られているのか気になる人って、結構いると思うんだけどね。私、他人にもの言うときは、割と言葉選べるし、意外と悪くない思いつきなきがするけどなぁ。
 ちょっと日をまたいでから、熟考して決めよ。


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