薄っぺらさを受け入れる

 漫画を読んでいると「薄っぺらいな」と思ってしまう。それが真剣に書かれたと分かるものほど、その絵の丁寧さやストーリー構築のうまさに驚嘆すると同時に、その中身の薄っぺらさ、作者の人間への理解の浅さ……いや、理解が浅いわけではないのだが……何というか、人間というもの自体の薄っぺらさを感じてしまう。
 何も優れた漫画家の人格が薄っぺらいと言っているわけじゃない。ただ、登場人物のセリフが、生き方が、どこか薄っぺらく感じてしまうのだ。だがそれは……現実においても、他者に対して容赦なく感じてしまうことであるから、ある意味ではそれは「リアル」だ。

 何のために書くのだろう。夢? 目標? それともそういう風にしか生きられないから? なんだっていい。出来上がったものが何に影響して、何に繋がっていくかなんて私には分からないし、分からないものをとやかく言う理由なんてない。

 でも……少なくともその作品は、私を空しくさせた。私に、人間への軽蔑を思い出させた。劣った作品ではなかったからこそ、だ。ただふざけたような、読者のための作品であったならば、いつも通り笑って楽しんでしまいだった。しかしその作品は間違いなく、作者の思いが込められていた。だからこそ、私はそこに「薄っぺらさ」をわざわざ感じてしまう。何かと比べているわけじゃない。私が普段書いているものの方がずっと薄っぺらいのだから、己と比較しているのであれば、それは薄っぺらくないはずなのだ。

 私は自分が感じたものを信用できない。「薄っぺらい」と感じるのは、結局私自身が薄っぺらいからではないか、とまっさきに思ってしまう。そしてその考えが頭から離れない。
 客観的な事実など役に立たない。結局認識は自分の都合のいい情報を見たがる。事実は無数に存在し、どれに焦点を当てるかはその人間の趣味の問題になってしまう。それが単純な物質ではなく、複雑な人間にまつわることである場合は特に。

 ひとつ確かなことがある。私は恥ずかしいと思っている。自分が軽蔑するしかないようなものから強い影響を受けて、揺らいでいる自分のことが。
 結局私はまだ若いのだ。ちょっとしたことを重く捉えて、それだけで自分が大きく変化してしまう。慎重になったからといって安全になるわけでもなく、むしろしばらく変化してないと、息苦しくなるし、次のアクションによって引き起こされる変化が、間隔をあけなかった場合よりもさらに大きくなることもある。
 何を選択しても、結局私は世界と偶然に揺さぶられるしかないように思う。

 私に自由意志なるものは、ないか、あったとしても、無力だと思わずにいられない。
 もちろん、自分の欲求や信念は大事にする。それに従って生きる。でもそれ自体は、私自身が決めたことではなくて、勝手に決まっていたものであり、それに従おうと決めたこと自体も、この肉体に決めさせられたことなのだ。そしてそれ自体も絶え間なく変化していき、その変化に抗うこともできない。
 だけれど、私は縛られているわけではない。空を飛ぶ鳥が、翼というものに囚われているわけではないように、私の精神が私の肉体に結合されていることは、囚われているということではない。
 空を飛ぶ鳥が、嵐によってその行き先が変えられたとしても、その翼が嵐に囚われているかというと、そういうわけではない同様に、私の心が世界と偶然によって変化していくとしても、だからといって私の心が世界と偶然に囚われているというわけではない。

 私は私のことを浅薄だと思う。どうしようもなく、自分の人生がしょうもないものだと思えてならない。
 そして、周りの人間たちのことも、同様だと思う。自分が特別だなんて思えない。思う必要もない。だが均質ではないし、ましては同質ではない。
 それぞれ共通したものを持ち、相反したものを持ち、互いの間には越えられない壁があり、それでも同じ時間と空間を共有している。

 しょせん私なんて、皮膚に過ぎない。だけれど、皮膚に価値がないわけじゃない。むしろ、美しさの多くは皮膚に宿っている。
 でもそれは、私たちの目が薄っぺらさを愛しているからではないのか。絵描きは皆、薄っぺらさに恋をしているから、平面上に何かを再現しようとするのではないか。結局全て、薄っぺらい!

 言葉で何かを再現しようとするのも、同じことじゃないか。それは結局皮膚だ。皮膚は、その中身を暗示する。暗示するだけなんだ。言葉は皮膚でしかない。でも皮膚を見た人間が、その内臓を見ようとしている限りにおいて、それは単なる皮膚としての価値を超えていく。

 言葉の裏側にあるものを示したいのだ、私は。

 そうか。私が、よくできた創作物を軽蔑する理由は、その作品自体がもはや作者の内臓と繋がっていないように見えるからだ。違う。作者自身が、その繋がりを断ち切ろうとしているからだ。人が楽しむための作品、より優れた作品、より美しい皮膚を求めて、グロテスクな内臓を排除しようとしているから、私はそこに浅薄さを感じずにいられないのだ。
 痛みそのものではなく、単なる他者の痛みの模倣でしかないように見えるのだ。人から聞いた話をもとに組み立てられた話であるように感じてしまうのだ。
 
 すごいと思うのに、優れていると思うのに、なぜか心にはもやっとしたものしか残らないのは、そういうことだったのではないか? そこには、楽しみや気晴らし以上のものが含まれていないから。「作ること」以上のものが含まれていないから。

 
 私が勝手にそう思ってるだけだ。それに、私の考えが当たっているとしても、優れた作品にはそれだけで価値がある。否応なく、他の人の内臓に影響を及ぼすからだ。今私が、揺さぶられているように。考えさせられているように。
 薄っぺらいとは思う。それは、そう感じてしまうのだから仕方ない。軽蔑の念も感じずにいられない。失礼なことだと思うし、思い上がりもいいところだと思う。でもそう思ってしまうのだ。
 受け入れなくてはならない。自分の気持ちもそうだ。その作品の価値もそうだ。

 苦しいが、これでいいのだ。

 人間は、誰もが薄っぺらさと共に生きている。
 だからといって、中身がないわけじゃない。中身が見えないからといって、中身がないということにはならないのだ。

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