独我論と存在論

 デカルトの「我思うゆえに我あり」は、多くの人に曲解され続けてきたし、今も曲解され続けている。
 彼はそもそも敬虔なカトリックであり、神を信じているものとして神と対立しないように細心の注意を払って懐疑をしていた。
 つまり彼は「全てを疑う。ただし神以外」と言っていたし、実際に考えていたのだから、彼を無神論的である独我論と結びつけるのはナンセンスである。

 ともあれ現代の日本であのキリスト教的な神を本気で信じ続けている人はあまりいないし、今はデカルト的な実在論の話ではなくて、世間一般で言われている『「私」という自意識が、もっとも存在として確からしい』という論理を軸に考えを進めていこうと思う。

 実在の懐疑の根本にあるのは、認識の不確実さから来る。
 つまり「この現実は、自分がこの現実だと思い込んでいるだけで、実際は存在していないのではないか?」という疑いに起源を持つ。そしてそこからほとんど自動的に「では、何よりも、それが存在していることが嘘でないと言えるものは何だろうか?」という問に行きつく。そして「今考えている、この私こそが、この世でもっとも確かなことである」と考えるわけである。(これがデカルトの思想ではないことを、はっきりと明記しておこう。彼はもっと賢い)

 しかしこの「私は考えている。ゆえに私は存在する」という論理は、多くの危険をはらんでいる。
 つまり「私の見ているもの」の存在を、その論理は保証するどころか、ほとんど積極的に否定しようとするのであるから。

 この論理を自分の信念としてしまった場合、自分の認識を根本から疑うようになってしまう。「彼はあぁいっているが、それは私の産み出した幻影ではないのだろうか?」などという、自分の正気を疑うようなナンセンスな懐疑をし始める。はっきりいってそんなのは、お馬鹿さんである。

 逆に考えてみれば、その馬鹿馬鹿しさはよく分かる。まったく自分とは別の人間が現れて「お前は私の夢なのではないか?」などと言い始めたら、あなたはどう思うか? 「そうかもしれない。私はあなたの夢の中の住人なのかもしれない」などとあなたは認められるだろうか? 
 認められたとしたら、先ほどの「私は考える。ゆえに存在する」という命題と矛盾してしまう。つまり自分が夢の中の存在であるというのは、「私は、彼によって考えさせられている、非実在である」と主張するのと同じであるから、独我論は、それを論じる人間が二人以上存在している時点で、自己矛盾するのだ。

 ではこの世界の存在とは何か。私は、「自分が考えうることは全て存在しうる」と考えている。あるいは「考えとして存在するものは、考えとして存在している」という単純な同語反復でもいい。

 要は、私がそこに存在しているかもしれない、と思ったならば、それは存在していたとしても、それが私の幻影であったとしても、私がそれの存在を認識し「真」として取り扱うことを決定しているのだから、それが世界にとってどのようなものであったとしても、それは私の認識とは別の問題である、というそういうことである。

 あくまで私の認識は私の認識の外側に出ることはできず、外の世界を「見る」に留まるわけで、その領分を守りつつ、「認識はあくまで認識である」という原則を守るならば、そもそも存在的な疑いは、全てナンセンスであるといえる。

「それが存在しているかどうか」は、認識が後からそう判断するだけであり、それが元々存在していたかどうかは、そもそもその認識がどう認識するかに一任されているから、どのように認識してもいいのである。

 そして私の意志は、私の認識が存在する前から、この世界は存在していた、と認識している。
 唯物論的な解釈を受け入れたうえで、時間を通じた精神の存在の複雑性も認めている。「私」という自意識が産まれる前からその母体となる肉体と「私」は存在したし、そもそもその私というこの一個の人間が産まれる前から世界は存在していた。
 そしておそらく世界が存在する前から、何かしらが存在していた。

 あくまで私の認識には限界があるが、少なくとも私の認識が存在を認めたものが、そもそも存在していなかったと考えることは、やはりナンセンスだ。
 それは「私は思う。しかし私は存在しない」という命題の奇妙さに近しい。
 私が言っていることは「私はそれを認識した。その対象が認識される前から存在したであろうことを認識した。ゆえにそれは、現在存在していて、私が存在を認める以前からもまた、存在していたであろう」という単純明快な存在論である。


 ま、つまりね。
「存在自体を疑うのはナンセンスだから、やめた方がいいよ。馬鹿みたいだし、くだらないから」

 疑う場合は、はっきりと否定する覚悟を持って疑うべきだと私は思う。つまり存在を疑うならば「そんなものなど、実は存在しないのだ!」と認識する覚悟を持って、疑うべきだと思う。
 結論された否定は、疑いとは違うものだし、疑いというものは、そもそも考えぬけていない証拠だと私は思う。覚悟や勇気、認識の鋭さの欠如だと、私はそう思います!


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