幼少期の認識

 自分がまだ幼かったことの「世界の見え方」を覚えている人は少ないと思う。
 そういう記憶はどうしても断片的に、ある程度は再構成する必要はあるし、再構成するにしても、今の自分との間にあまりに一貫性がなさすぎたり、小さい頃は失敗の連続でもあるので、プライドが高い人ほどそういう過去の自分を具体的に認識することは難しいと思う。

 すぐ人の言うことを信じる子供だった。迷信や都市伝説を聞いて、心の底から不安になるような子供だった。
 ものごとを自分の中で確かめる癖がついたのがいつからかは分からない。でも生まれた時からそういう部分があったわけではないことは確かだ。
 お父さんにくすぐられるのが怖かったのを覚えている。きゃあ、と大声で叫びながら逃げ回って、お母さんに「うるさい」と怒鳴られたことを覚えている。怖かったけど、楽しかったのを覚えている。あの時はみんな幸せだった。

 ゲームが好きで、お父さんが昔好きだったゲームをパソコンのエミュレーターでさせてもらっていた。ドラクエとか、ファイナルファンタジーとか、ファイアーエンブレムとか、テイルズとか。
 スマートフォンアプリのパズルゲームにはまっていた時期もあったけど、すぐに飽きた。
 お父さんが買ってきた、子供向け論理パズルみたいなものにもはまっていた。小学生になる前に、五年生用とか六年生用とか、そういうのを楽々解いて自慢げにしていたのを覚えている。

 好奇心旺盛で、どんなものにも挑戦するのが好きだった。我慢強い部分もあって、嫌なことがあってもとりあえず何か結果が出るまで続けようとする性質でもあった。

 神様はいると思っていた。自分の意識が物質の動きの結果だなんて馬鹿げた推論に思えたし、宇宙がビッグバンによって生まれたとしても、そのビッグバン以前の世界や、物理法則を定めたのは誰という話をすれば、神様みたいな人間より高次の存在がいなければ筋が通らないと思った。それで、同じようなことを言っている人がいないかとお父さんに聞いて、ヨーロッパの哲学者やキリスト教関連の本を読むようになった。
 日本の宗教にも興味を持って、いくつかの新興宗教と、仏教、神道の方も少し勉強した。

 結局そうやって、色々な人が色々な地域で生み出したあらゆる世界観に触れてみると、何が何だか分からなくて、遭難したような気持ちになってくる。そうなったときに頼れるのは、やはり科学的方法論だった。自分でも確かめられることが、一番確からしいことで、それ以外のことは判断を保留にしておくのがいいんだと思うようになった。


 そういう自分の中の精神的な成長が、肉体の成長とどのように符合しているかは分からない。思い出せない。

 肉体の成長は肉体の成長として、また別の歴史を持っている。

 幼稚園には通っていなかったが、自転車に乗ってひとりで公園に行くことが多かったから、そこで幼稚園に通ってる子や小学生の遊びに混ぜてもらうことは多かった。親戚の兄が近所に住んでいたので、帰りはよく送ってもらった。
 私は当時身長が年齢の割に高かったので、小学生と混ざってもそれほど違和感はなかったと思う。頭もよかった。
 そこでできた友達の家に遊びに行くこともあったし、そこでみんなでゲームをすることもあった。
 年の差も性別も全然意識していなかった。そういう土地柄だったのかもしれないが、男の子と女の子が混ざって遊ぶのは普通のことで、逆に男ばかりで集まってたり、女ばかりで集まってる子たちがいると、その子たちの方が変な目で見られていた。地域性というのは不思議なものだ。中学以降、その話を友達として、それぞれ幼少期の経験と常識観は異なっていることを知って、面白いと思ったのを覚えている。

 小学生になると……まぁ、すぐに息苦しさを感じたような気がする。列に並ばされ、時間とルールを守らなくちゃいけなくて、守れない子はいつも先生にひどく叱られている。子供同士のよく分からない喧嘩も嫌がらせも、見ているだけで気分が悪かったし、自分も時にはそれに混ざらなくちゃいけないような気がして、そういうことをしてしまったこともある。
 当時、私は「みんなと同じじゃなきゃいけない」と思っていた。でも勉強でだけは、どれだけ目立っても誰も文句を言わないから、私は多分誰よりも手をあげることが多かったし、先生も予想がつかないような鋭い質問をしたりして、そういうのを楽しんでいた。
 男子たちと一緒に外でドッジボールやサッカーをするのが好きだった。鬼ごっことか、そういうのはあまり好きじゃなかった。走るのは速い方だったけど、追いかけるのも追いかけられるのもあまり好きじゃなかった。
 給食で嫌いな食べ物が出てくることが多かったので、大人しい友達にしょっちゅうあげていた。それがバレて先生にこっぴどく叱られて泣かされたのも覚えている。

 私の認識は明らかに成長している。時々、身近な「自分のことを普通だと思っている人」と話していると、過去の自分があのまま成長しなかったら、こういう風になっていたような気がする。
 頭が悪いわけではない。でも、見ているものの解像度が低く、自分自身の身の回りのことしか考えていない。自分にとってどうするのが一番いいか、ということを常に判断の最優先基準に置いていて、それ以外のことを考えるのは疲れるので避けている。考えさせるような人のことも、あまり好きじゃない。

 小学生時代、私は時々理由もなく嫌われることがあった。私はそれがなぜか分からなかったけど、意味も分からず酷いことを言われたり、罠にはめられて先生に叱られたりして、それで、自分に置かれた状況を両親にも先生にもうまく説明することができなくて、涙ぐみながら歯を食いしばって、言葉を頭の中でぐるぐる回していたのを覚えている。
 嫌なことがあっても、そのことを何度も何度も思い出して、もし同じことがあったならどうするか対策を考えていたけれど、次に起こるそういうことは、私の状況判断力や応用力を超えたようなことばかりで、毎度毎度つらい思いをしていたと思う。
 よくできた子供は叩かれる。叩かれても必ず立ち直るし、成長するから、いくらでも叩いていい。周りの人間も、すぐ立ち直る私を見て感心する。感心されてるんだから、君も満足だろう? そういう風に、周りの人間は思っている。
 他の子たちを見ろ。お前ほど賢くないし、両親からも大切にされていない。友達同士でいがみ合っている。お前はそれと比べて恵まれているんだから、少しくらい理不尽な目にあうくらいがちょうどいい。
 そんなことを言ってきた人がいたような気もするし、それは単なる私自身の妄想であるような気もする。ともあれ私は自分が恵まれていたことも、他の子たちよりも成長が早く、そして彼らが自分に追いつくことはありえないということも分かっていた。あらゆることについて「大目にみよう」と考えていた。超然とした態度で乗り切ろうと考えていた。それがかっこいいことであり、立派なことであると思っていた。

 でも実際の私は臆病で感じやすいただの子供だったし、ふとしたタイミングで大泣きしてしまったり、暴れ出してしまったりしたこともある。でもそういうことに関しては、後悔はしなかったし、恥ずかしいとも思わなかった。自分の中の抑えられない幼稚性、みたいなものが好きだった。その瞬間だけは、全てが許された気がしたし、周りの人間も大目に見てくれた。私が訳の分からないことをわめき始めるたびに、人は私に遠慮した。
 このよくできる子も、色々と我慢しているんだな、と思ってくれた。

 逆に言えば、そういうことをしなければ、彼らにとっては「子供らしくない、周りを見下した、平等の精神に反する厄介なガキ」だったのだろう。私が他の子たちと同じような幼稚性を出すたびに、大人たちは安心したような表情をするのだ。

 私はいつも感情的になっているとき、その裏側で冷静な自分が状況を眺めていた。
「あぁこいつらもお前も、みんな馬鹿だな。お前の方がまだマシだな。お前の置かれている状況は、少しかわいそうだ」
 そういう自己憐憫のような気持ちは、早い段階で持っていた。そういう認識によって、自分自身を慰めていた。自分らしくない自分を許していた。
 私は今でも、過去の自分を見ているとかわいそうだと思う。他の子たちのことも、かわいそうだと思う。色々なことが、気の毒に思えてくる。この人間社会そのものが、あまりにも腐っていてどうしようもないものだと思えてしまう。
 そして、そのたびに「仕方がない」とため息をつくのだ。

 そういう風に思っていても、私自身が誰かにひどい悪口をしつこく言ったり、くだらない意地悪をしたり、報復がてらつまらない罠をしかけて先生に叱らせたり、そういうことをすることもあった。自分がされたことは、一度誰かに試して、なぜそういうことをするのか確かめたかったからなのかもしれない。
 私はそういう点ではけっこう残酷で、考えなしだった。復讐と言いつつも、私は憎しみを覚えるタイプの人間ではなかったから、誰がやったか分からないようなことをされた場合、私も自分がやったと分からないように、その時一番気に入らないと思っていた人に同じことをした。その人が自分にやったわけではないと確信している場合においても、そういう不当な意地悪をやった。
 自分自身の欲求を満たすためだけだった。好奇心、だと思う。

 人が傷ついているのを見るのは胸が痛むけれど、しかし学校生活では、傷ついている人があまりに多いので、そういう胸の痛みに慣れて「それが何か?」という態度に変わってくる。ひどい目に遭っている人を見ても「気の毒だな」と思って目を逸らすだけ。皆がそうしていた。
 それに、怒られているとき、友達も私も、みんなこう思っていた。
「なんで私だけがこのことで怒られなくてはならないのか。みんなやっていることなのに」
 教師たちは、自分のストレスを子供たちにぶつけたいか、あるいは見せしめをすることによって子供たちを扱いやすくしかったのだろう。本人たちがそのつもりはなかったとしても、無意識的にそのように考えていたと判断する方が自然だ。意味もなく厳しくなる瞬間というのが、どの教師にもあった。
 今思えば、彼らも苦しんでいたのだ。長い勤務時間、馬鹿な親たちへの対応、同僚との不仲、世代間の認識の乖離、色々と問題はある。大人と言えども、人間。

 ただ当時の私は、そんなふうに想像力を働かせるだけの余裕も知性もなかったので……多分、それについては何も考えていなかったと思う。自分のことで精一杯だったし、宗教や神秘的な事柄、数学や科学の方が興味深くて、そちらのことばかり考えていた。人の気持ちやその人特有の経験にまで気を配る習慣はついていなかった。

 中学生になるころには、今の私に結構近い性格に変わっていた。冷静で、自分の欠点を自覚していて、人当たりがいい、そんな自分になっていた。
 ただ今の私と決定的に違うのは、あの時の私は悲観的な世界観と、楽観的な人生観の両方を持っていたということ。

 世界は救いがなく、醜いと思って生きていた。同時に、自分は優秀であり、恵まれているから、何とか自分なりによい人生を歩んでいけるはずだと思っていた。

 今と真逆だ。今は、世界には希望があり、美しいことが無数にあると思っている。同時に、私は無能であり、恵まれてはいるが、それをうまく行かせなかったので、自分なりにマシな人生を歩むしかないと思っている。

 そういう、自分に対する考えは社会的な評価が密接に結びついている。当時の私は学校生活に不自由はなかったし、異性からもモテていたし、勉強は自分より得意な人間が見当たらないほどだった。友達から頼られることも多かったし、教師からも信頼されていた。

 対して今は、高校をやめて、大学に行くつもりも今のところはなく、働くつもりもない。働ける気がしないし、自分の人生に対する展望は一切見えない。お先真っ暗だ。だがその暗闇を、今は楽しんでいる。私は豊かな人間だから、ずっとこういう時期が死ぬまで続いたって、構いやしない。私には関係ない。他の人が私のことをどう思うかなんて、もう何もかも関係がない。そう考えている。そう考えるしかないのだ。
 当時の私とは別の意味で、超然とした態度を今も自分自身から求められている。

 ともあれ、中学時代の私はとても歪だった。嫌いなものはどんどん増えていくし、両親の仲はどんどん冷えていくし、自分の考えたことは先生にすら理解されなくなっていく。自分の頭の良さが、自分にとって不利に働くしかないことに気づいたのもこのあたりだ。それでも、自分の歩んできた道や幸せを否定したくなかったから、私はもっと賢くなろうと欲した。
 自分が何か嫌な気持ちになったりものごとに不安を感じてしまうのは、私が無知であるからだと思った。その点では、プラトンの言うことを信じていた。私たちはみんな暗い洞窟の中で影を眺めて騒いでいる。だから、私はもっと知ろうと思った。もっと光へ、正確な認識へ。そう思って、考えた。考え続けた。

 確かにプラトンの言ったことは嘘ではなかった。認識は幸せに変わった。疑念は楽しみに変わった。不確かさは、豊かな想像力に変わった。
 正しいのか分からなくて距離を置いていた宗教や迷信が、人々の素晴らしい、尊敬すべき知恵だと思えるようになった。
 科学は味気ないと思った。人間の心は不思議だと思った。自分は間違っていないのだと思った。
 周りの人間がみんな私を間違っていると言ったとしても、社会が私を間違っていると言ったとしても、私の考えは私の考えであり、そうである限り、私は私の正しさを信じるしかないのだと思うようになった。

 一番になろうと思った。全力を尽くして、私は自分に歩める一番いい人生を歩もうと思った。その中で、素敵な人と出会って、小さくて幸せな世界をまた作り出せるはずだと思った。

 そういう無謀な試みの先に、今の私がいる。
 人生に空しくなった。心が死んでいくのを感じた。全てを変える必要に迫られた。

 だから、変えた。変わった。

 私は、彼らの手の届かないところで生きる必要に迫られていた。彼らの妄想の外側で生きる必要に迫られていた。

:::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧:::::::::

 多分、私の記憶や、再構成された自分自身の物語は、私の都合のいいように捻じ曲げられている。それはおそらく、本当のことと言うにはあまりにも綺麗すぎる。
 本当はもっと複雑で、無作為的で、どうしようもなく統一感のない、でたらめな人生だったと思う。でたらめな、世界の見え方であったと思う。
 全ては、未来から過去を眺めた時、欲しい部分だけを手に取って、並べてみて、そこに規則や繋がりを見て、それに満足するだけなのだ。

 事実のように思える記憶から推論して、当時の自分が考えていたことや想像していたことを書きだしてみる。でも実際には、別のことを考えていたはずだ。記憶から抜け落ちた、過去の私の在り方は、もう二度と返ってこない。それでいいのだ。

 幼い頃の私は、確かに今の私とは違うことを考えていて、違うことを信じていた。それを認めているだけで十分だ。人は皆、そういうことを知っていないといけない。自分が幼い頃、たくさんの失敗と恥を体験してきて、目の前の相手がそれを指摘してこないのは、それを知らないからではなく、お互いにそういう部分があることに目をつぶりたいからなのだ。

 私たちはどんなことを言っても、幼い頃の自分の愚行を並べられたうえで「こんなことをしていたお前が、そんなことを言えるのか?」と問い詰められたら、黙るしかない。誰もが、だ。

 だから、互いに過去のことは水に流している。忘れてしまったことにしている。

 でもおそらくは、自分自身を形作っているのは、そういう過去なのだ。つまらない、思い出したくない、過去の失敗が、あなたという人間の個性なるものなのだ。

 この言葉は、人によっては当たり前のことのように響くが、また別の人には、あまりにも恐ろしくて衝撃的なことのように思えると思う。自分の過去に向き合うということは、若く、敏感で、自分の精神というものを神秘的なものだと考えている人にとっては、あまりに難しいことであり、残酷なことでもあると思う。

 中学生のころ、私はそう思っていた。
「過去の私は過去の私。それについて考えても仕方がない。目の前のことをやらないといけない。後悔をしたって意味がない。意味があるのは反省だけで、反省というのは直近の過去について考えることだ。遠い昔のことなんて思い出したって仕方がない。恥ずかしくて気分が悪くなるだけだ。
 遠い昔の恥の記憶をしつこく具体的に思い出して、それを文章にするなんて身の毛もよだつ。どうしてそんな愚かで醜いことをしなくてはならないのか」

 そう考えているから、いつまで経ってもあなたの過去は醜いままなのだ。全ての醜い過去は、それを具体的にして、解釈しないといけない。そうしないと、いつまで経ってもあなたはあなた自身のことが分からないままだ。
 もちろん、人は自分のことを知る必要などない。何も分からないまま、死んでいくのだってアリだ。それでもいいと思えるのなら、そうするといい。

 でも、もはや立ち止まるしかなくて、この先の人生について希望が見えなくなったなら、その時にこそ、もっと不幸にならないといけない。自分自身の苦しい過去や残念な過去、恥ずかしい過去や犯した罪について、徹底的に掘り下げて、理解し、解釈しなければならない。許せるなら、それを許せばいい。許せないなら、絶対に許さないと決めればいい。
 いずれにしろ、あなたの心をもっとも震わせるのは、あなた自身の思い出したくない過去なのだ。

 固有の過去。固有の経験。私たちは、他人のそういうものを興味深く眺め、自分のそういうものを恐れて遠ざけようとする。一番自分に衝撃を与え、自分を内側から変えてしまうのは、自分が抑圧してきた過去にあるからだ。
 変わりたくない人や、今のままでも十分幸せな人は、わざわざそういうのを見て不幸になる必要はない。抑圧されているのは、その抑圧が必要であったからであって、あなたが弱いからでも、ダメな人間だからでもない。むしろ、それで幸せなら、それが一番いいのだ。知らないままでいた方がいいこともある。

 でも、もはや何が幸せか分からなくなって、何をやっても味気なく、今の自分以外の何かになれるなら喜んでそうなりたいと欲するような絶望した魂には、こう言うしかない。
「あなたにはもう、知らないままでいた方がいいことなんて何ひとつない。だってあなたは、知らないままでいたって、幸せでいられるわけじゃないんだから……」
 実際、私たちが自分の過去を掘り下げ、向き合うのなら、自分のこれまでとこの先の人生をそっくりそのまま投げ出さなくてはならない。犠牲にする覚悟を持たなくてはならない。その先で自分が狂ってしまったり、おかしなことをしてしまったりすることを、自分自身に許さなくてはならない。
 心の中の冒険は、常に社会的な破滅、精神的な異常と隣り合わせだ。

 私たち無謀な精神の冒険家は、仲間が狂ったり死んだりしても、同情はしない。それは失礼にあたる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?