なんで昔はあんなに

 自分のことをダメなヤツだと言っておけば、他人から何かを押し付けられずに済む。期待もされずに済むし、何よりも、自分自身に対してがっかりせずに済む。頑張る必要もないから楽だし、他人と比べる必要もなくなるから、劣等感を感じる必要もない。
 対価は、空虚感。自分が無意味だという実感。産まれてきてごめんなさい、という罪悪感。

 自己認識が、その人間の将来を決定する、というのは本当に正しいのだろうか。あの、どうみても能力は平凡なのに、自分はすごいんだと思いこんで日々楽しく過ごしているあの男の人は、それによって、本当に優れた人間になるのだろうか? 周りの人間は確かに彼にある程度の敬意を払っている。彼の頭がいいからではなく、彼に根性があり、なんだかんだ、言われたことを最後までやり抜く力があるからだ。投げ出さずに、ぐちぐち周りに文句を言いながらも、いつも彼自身の全力を尽くしているからだ。
 悲観的な人でも、優れた成果を出している人は、自分の能力を素直に、事実の通りに受け入れている。自分の欠点を実際以上に大きく見ているけれど、自分の長所に関しては、小さく見過ぎたりはしていない。できることはできることとして、日々黙々とこなしている。すごい、と思う。

 私はどうだろうか。私は昔、自分にはなんだってできるはずだと思っていた。同時に、何にもやりたくない、と思っていた。耐えた先に、何もせずに生きることのできる未来を欲していた。私は昔から、頑張ることが嫌いだったのに、頑張っていないと安心できないような……そんな、奴隷みたいな生き方をしている人間だった。生きることは苦痛である。生きることは苦痛である。生きることは苦痛である。そんなことを思いながら日々を過ごす小中学生時代。そう思いたくて思っていたのではなくて、そう思うしかないから、そう思っていた。頑張っていた、と思う。何の希望もないのに、ただ大人のアドバイスを素直に聞き入れて、きっとうまくいく、と、中身のない、箱だけの希望に縋っていた。
 私がこうなったのは、必然的であり、驚くに値することではない。冷静に考えてみると、私は犠牲者であると同時に、失敗者でもある。

 私がうまく生きていく未来があったとすると、幼少期、もっと早い段階で何か大きな病気か何かにかかって「頑張らなくても周りが支えてくれるから何とか生きていける。高い目標なんて、持つ必要はないのだ」と理解して、のんびり、人並みに、無理せず、レールの端っこの方で、誰かに馬鹿にされてもあまり気にせず、羊のようにメェメェ言いながら生きていくような未来だったのではないか。

 今の私は、羊というより山羊だ。醜くて、意地の悪い顔をしていて、傲慢で、自分勝手で、怠惰で。

 私は勤勉になれる人間ではなかった。努力して掴み取る成功に、価値を見出せない人間だった。私は立派な人間なんかじゃなかった。立派でありたいと思って、思うことが、実際にそうなることの第一歩になると信じて、そう思い続けて、思い続けた先にあったのは、意味もなく、そうでない人たちを見下す醜い自分だけ。私は平凡であったし、平凡でしかなかった。でも、満足に平凡を演じ続けることも、ろくにできなくて、なぜか私の体は、皆と同じように生きる自分に耐えられなくて、私は結局、ひとりぼっちで、自分にできることは何もないんだと嘆くことしかできない。生に耐えることしか、私にはできない。
 自分がなぜ生きていかなくてはならないのかも分からず、それでも生きていかなくてはいけないことだけは確かに分かっている。死にかけた経験がなければ、分かることではなかった。結局それがなかったら、私は生きていけなかった。どうしてこんなに苦しんでまで、生きようとするのか。あるいは、生きると決めているのに、なぜまだ苦しもうとするのか。自らの苦しみを抱きしめて、考え、悩み、受け入れ、傷をなぞり続けるのだろうか。
 全てを忘れて、白痴のように生きればいいのに、なぜそれができないのだろうか。

 本当に愚かで惨めな人のように、現実から目を背けて、実際でないものを自分に信じて、空想の世界で生きていければ、今より苦しまずに済むと分かっているのに、そうしないのはなぜなのだろう。なぜ私は、いつまでも、いつまでも、救いようのない、惨めな自分自身と現実に向き合い続けるのだろう。そこに何らかの希望を求めてしまうのだろう。自分にだってできることはあるはずだと、いつまでも、そんな、叶うことのない望みを抱いてしまうのだろう。
 なぜ努力しようとしてしまうのだろうか。新しい目標を立ててしまうのだろうか。全部崩れ去って、自分にはできないのだと、自分は無能なのだと、そう思い知ってなお、きっとできるはずだと、すぐ倒れるのが分かっていても、立ち上がろうとしてしまうのだろう。苦しいだけだと、つらいだけだと、分かっていても。それでもまだ立ち上がろうとする自分の愚かさに、私はうんざりしながらも、いつも少しだけ喜んでいるのだ。

 私は自分を誰よりも低い場所に置く。その方が楽だし、自分らしいからだ。誰が何といおうとも、私のことを褒め称えようとも、実際より高く評価しようとも、低く評価しようとも、私はそれを聞き入れず、あなたと私は違う人間なのだと割り切り、私は、自分の中でもっとも低い場所に、自分自身を置くことにする。私には他者を評価する資格などないのだと理解して、他者との関わりを受け入れる権利も拒む権利もないのだと諦めて、私に定められた唯一の能力と、その運命だけを私自身に課して、それ以外のものはすべて放棄して生きていく。
 私に残されたものはきっと、この狂気だけだ。この自己陶酔だけだ。どうせ私はうまくいかない。失敗以外の運命を、私は知らない。
 私は深く落ち込んでいる。深く深く落ち込んでいる、が、そうしている時の自分自身こそが、誰よりも気高い自分自身であることを、私は知っている。誰よりも美しい自分自身であることを、私は知っている。私は不幸とともに生きていくしかないのだ。

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