誤用の恥ずかしさ

 noteをやってる人なら一度は経験したことがあると思う。昔の記事を読み直していて、慣用句などをひどく誤って用いているのに気づいて、恥ずかしい思いをすることを。

 「てにをは」のミスとか、ら抜きとか、その辺のよくある間違いは、私の場合は、ちょっと仕方ないなぁと思う。それは知識不足というより、単に怠惰な性格と、注意力が不足しているだけだから、まぁそれで自分が低くみられるのは仕方ないっていうか、本当のことっていうか……自分の中で、割り切ってる部分がある。
 でも、かっこつけたり、背伸びして使った表現が、意味を間違えていたり、用法が致命的にズレていたりしたときは、もう、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。慌てて記事を編集し、マシな表現に変えて、安心する。でも冷静に考えてみると、もうすでにその記事を読んだ人は「うっわこの子、ひっでー勘違いしてるなぁ」と思っただろうし、そう考えると……それ以上はあまり考えないようにしている。

 話を少しずらすが、私は他の人の記事を見て何らかのことわざや慣用句を誤用していたり、使い方がおかしかったりしても、あまり気にしない。一応は心の中で突っ込むし、そもそも私の認識の方が間違っているんじゃないかと気になって、ネットで調べて確かめたりもするが、基本は言わんとしていることが分かればそれでいいので、その人のことを馬鹿だと思ったり、読むのをやめようと思ったりすることはない。直してほしいなぁと思うことはあるけれど、わざわざそれを指摘しようとは思わない。

 おそらくは、私の文章を読んで間違いを見つけた人も、私と同じように感じている人が多いのではないかなぁ、と思う。そう考えると、恥ずかしく思いすぎるのも変な話で、気づいたら気づいたときにさっと直してそれ以上気にしないのが一番いいような気もする。まぁ、気を付けることによって間違いがなくなるなら、それが一番いいんだけどね……


 でも、これに関してもっと恥ずかしいことがあって、それは、自信満々で人の間違いを指摘したつもりが、指摘した自分の方が間違っていた、ということだ。しかも、このご時世ちょっと調べれば分かるようなことなのに……
 私自身、そういう失敗を小さいときに何度かやらかしてて、もうそれ以来けっこう気を付けてはいるけれど、それでも家族と何気なく喋ってるときとか「え? その表現おかしくない?」って指摘した自分の方が間違っていることもあって……まぁ、人生に恥はつきものだよなぁと思うんですよ。

 他人の失敗を覚えている人っていうのは滅多にいないし、いたとしても少数で、そのことを周りに言いふらすような人とはそもそも関わらなきゃいいから、恥ずかしい思いをしたくないという理由で色々な行動をやめてしまうのはもったいないような気がする。
 特に若いうちは、どんな失敗をしても、その都度ちゃんと恥じて、改善しようという態度でいられるならば、大人たちは基本的に大目に見てくれるし、そういう若者を積極的に助けようとしてくれることもある。

 私はまだ若いから年を取った後のことは分からないけれど、自分自身のことを考えるならば、とりあえずやってみる、というのは決して損をしない態度であると思う。
 文章に関しても同じで、まだ自分が未熟であることを自覚しているなら、多少背伸びしたような表現をしてもいいと思うし、どんどん誤用してどんどん恥ずかしい思いをしていいと思うんだ。

 こんなことを言いつつも結局、私、恥ずかしい思いしたくないから、無難な言い方ばっかりしちゃうんだけどね……

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