物事の表面を愛するがゆえに

 皮膚の美しさは誰にでも分かる。内臓の美しさは難しい。

 たとえばある名医が胃カメラの映像を見て、こんなことを言ったとしよう。
「君の胃……すごく綺麗だね(ニヤニヤ)」
 表面の美しさしか知らない人間は「この人は変態なのだろうか」とか「健康的っていう意味かな」とか、そんな捉え方をするかもしれないが、実のところ、内臓には内臓の美しさがある。それはたくさん人の内臓を見てきた人にしか分からない。見ていて気持ちのいい内臓と、気持ちの悪い内臓がある、というわけだ。

 内臓よりはまだ骨の方が分かりやすいかもしれない。形のいい骨と、形の悪い骨があり、私たちはその「形のよさ」に美を感じるわけだが、それは直感や本能だけでなく、経験も必要なものなのだ。


 皮膚の美と内臓の美は、全く領域が違う感覚なので「どっちの方が美しいか」という風に比べることは難しい。

 優劣の差はつけられないが、見ることの難しさという点では、はっきりと差がある。


 精神にも内臓と皮膚がある。皮膚とは意識や言葉だ。私たちが自分について自覚できるもののほとんどは皮膚に当たる部分だ。私たちは私たちの内臓を見ることはできず、その脈動を感じたり、それが私たちの表面を無理やり動かしたとき、それが存在するのだとまず最初に承認する。
 そして他が自分の体に触れたり、何らかの操作を行ったとき、私たちは私たちの内臓が、皮膚とは違った働きをするのを感じ、同時に、私たちの皮膚はあくまで私たちの内臓を守るために存在していることを知る。

 私たちの意識とは、私たちの精神のもっとも深い部分を守ったり、与えたり、そのようにして外部とつなげる作用がある。

 肉体において、皮膚の状態は内臓の健康を示すひとつの指標であるのと同様に、精神もまた、意識状態が自分の無意識的な部分の健康を示すひとつの指標となる。
 だが、内臓は健康でも皮膚が荒れたり、あるいは内臓がまずくても皮膚は綺麗さを保っていたり、そういうこともまた少なくないことであるのと同様に、精神もまた、意識的には健康でも、無意識的にはかなりまいっていることがあるし、逆もまたしかりで、無意識的には正常な状態なのに、意識が勝手に暴走することもある。

 皮膚と内臓同様に、私たちの意識と無意識は繋がっており、互いに影響を及ぼし合っている。もし互いに害を及ぼし合っていたら、意識は無意識を憎み、無意識も意識を憎む、という状態になることだってありうる。
 逆に互いに益をもたらしあっていて、互いを気持ちよくできていたなら、その人間は調和のとれた気持ちで日々を過ごせることだろう。

 私たちの意識的な部分が喜ぶのは、第一に他者との関わりだ。他者から褒められることや、認めてもらえること。あるいは、他者のことに興味を持ち、より深く知ること。不安がないことや、楽しみを感じること。意識自体が、意識の存在自体を忘れるほどに、強く働くこと。
 意識というのは働き者で、手持無沙汰であることを嫌う。特によくできた意識ほど、それはいつも動きたがる。
 綺麗な皮膚を持った人が服を脱ぎたがるのと同じだ。彼らが皮膚を必要以上に綺麗にするのは、それを人に見てもらいたいからなのだ。
 意識もまた同じで、意識というのは強く美しくなるほど、それを人に見てもらいたくなる。自意識過剰というが、結局のところ、強い自意識を持って、他に対する多くの義務を負う人ほど、自分の生き方を人に見てもらいたがるのだ。
 だが当然のことながら、反感を買うことが目的ではなく、好意と羨望の眼差しを欲しがるのが自意識の特徴であるため、他者に「自意識過剰」だと思われて反感を買うのは、まだ十分に自意識が育っていない場合だ。
 自意識は強くなれば強くなるほど、他者の心理傾向を学び、把握し、他にとって不快ではない自分になろうと欲するから自分の自意識が過剰なことで悩んでる人は、かつてのような「恥知らず」を目指すより、もっと強く深く考えるべきだ。すると、意識は自然と他に向くようになり(というのも、自分をアピールするためには、結局その場その場で他に合わせた動きをしなくてはならないからだ)だんだん人から好まれるようになってくる。
 それに、中途半端な自意識は、他の自意識過剰な人間に対して敵意を持ち対抗しようとするが、さらに自意識が強くなると、他者が抱いている自意識の程度を感じ取り、その人間をどう扱うのがいいか考えられるようになるし、さらに、自意識がある程度より強くなると多くの人にとって好ましい人間になることを本能的に知っているから、自意識過剰な人間に対して寛容になる。

 ともあれ、意識というのは私たちの精神の皮膚であり、それは強力であっていいものなのだ。それが分厚いということが、すなわち醜いということにはならない。薄いということが、すなわち美しいということにはならない。
 ただもちろん、子供の皮膚が美しいのと同様に、意識もまた、小さい方が誰にでも美しく見える。子供の無邪気さの美しさとは、意識の薄さの美しさなのだ。

 だが強い内臓を持つためには、当然分厚い皮膚が必要であり、分厚い皮膚を持てば持つほどに、それを美しく保つのは難しくなる。大きくて温厚な動物たちが人間から愛されるように、先ほど述べたような強い自意識を持った人間は、周りから愛される。でもだからと言って、その自意識が美しいというわけではないことが多い。

 それに、分厚い皮膚を持つ人間ほど、薄い皮膚を持つ人間を愛するものだ。私たちは何のために強くなるかと言えば、たいていは、まだ強くない者たちを守るためなのだ。

 絶対に勘違いしてほしくないことなのだが、私は「強者は弱者を守る義務を持つ」と言っているのではなくて「大人は子供を守る義務を持つ」と言っているのだ。あくまで、守られるべき弱者とは、いつか強くなることのできる人間だけだ。弱いまま大人になってしまった人間は、ちゃんと守られたり導かれたりしてこれなかった者たちであり、間に合うことも少なくないが、ただずっと弱いままでいようとする者たちに関しては、同情することはあっても、手助けしてやる必要はない。
 というか、強い者は決して見込みのない弱者には手を差し伸べないのが道理なので、それに関しては受け入れておいた方がいい。
 私たちは強くならなくてはならないし、他の人間を弱いままにしておこうとしてはならない。

 人間の意識を弱くして、愚かにして、扱いやすくして、そうして自分ばかりが得をしようということは、あってはならないことなのだ。
 これは道理というより、私自身の願いだ。どれだけ人間が悲惨な道を歩んでも私は構わないが、家畜みたいな気楽さと見通しのなさを持ってずっと「幸せだねぇ」「そうだねぇ」と言いながら緩やかに滅んでいく様だけは、本当に気分が悪い。
 何も理解しようとせず、将来のことも考えず、唯一の希望は「現状維持」みたいな人間は、今すぐにでも滅びた方がいい人間だと思いたくなる。
 そういう人間を利用したがるハイエナを見ても腹が立つし、そういう人間を羨んで自意識を弱めようと訓練している人間にも腹が立つ。
 老い以外で、より愚かになろうという試みは、それが一時的なものであるのではないなら、私は断じて許容できない。人間はもっと賢くならないといけない。

 ところで、ここでいう「賢さ」こそが、皮膚と内臓の強さのことを言うのだ。強いものは美しいかというと、そういうわけではない。というか、強いものの美しさは、弱いものの美しさとは性質が異なっている。

 男性の筋肉の美しさと、女性の脂肪の美しさの違いに近い。脂肪や筋肉は、内臓と皮膚の中間に位置するものであり、たとえるのにぴったりだ。

 ……それにしても私の精神、ちょっとマッチョすぎるかな?

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