泣きながら食べたコンビニの焼き鳥

 私は普段買い食いをしない人間だった。高校に入ってから、このままじゃ進級できないと言われて、意味もなく落ち込んでいた時、帰り道のコンビニによって、何か食べようと思った。何か食べて、元気を出そうと思った。このまま高校に通い続けることなんてできるはずないのだから、いっそのこと諦めてしまえ。今の私ならそんな彼女にそうアドバイスするが、当時の私は「もしかしたら急に元気が出てきて、自分の気持ちも変わって、またかつてのように学校に通えるようになるかもしれない」なんて、希望なのか絶望なのか分からないことを考えていた。(その「かつてのように」は言い換えれば「かつてのような地獄で」ということでもある。当時の私はまだ世の中から離れて生きる覚悟を持ち切れていなかったのだ。心のどこかでまだレールの上に乗ったまま生きられると思っていたのだ)

 焼き鳥はおいしかった。とてもとてもおいしくて、胸が熱くなって、涙がこぼれた。もう頑張りたくないと思っているのに、体に力が湧いてきてしまう。もう休みたいと思っているのに、おいしいから、このおいしさによって、また頑張れると思ってしまう。それがまたつらくて悲しくて、訳が分からないほど強い感情が襲ってきて。食べ終えて、涙を拭いて、ため息をつく。結局、ダメだろうな、と思う。実際ダメだったし……まぁ何というか、そういうことが、かつて何度かあった。

 誰だったが忘れたが「泣きながらパンを食べたことのある人間にしか人生の意味は分からない」と言ったやつがいて、その言葉を何度も思い出したのを覚えている。人生の意味……それでも、生きていくのだということだろうか。結局自分の気持ちなんて関係なく、食べるべきものは食べなくてはならないということだろうか。どれだけ心が追い詰められていても、結局は力を得なくてはならないということだろうか。まぁ何でもいい。意味なんてどうでもいいんだ。

 あの時食べた焼き鳥はたしかにおいしかった。でもとても悲しくて、やりきれない思いに囚われていた。それはひとつの慰めであり、補償でもあったと思うのだが、それで足りるとは思えない。食べている間、ほんの一瞬、そのおいしさのために自分は苦しんでいるんでいるんだと思うけれど、そんなのは勘違いだし、結局はいつか耐えきれなくて、折れる。

 あんな思いは二度としたくない。あんな風に生きるしか選択肢がないなんて状況には、なりたくない。
 ただ耐えるしかない。我慢するしかない。そうするしか、自分の生きる道はない。つらくても、堪えて、目の前の快楽に身を浸すんだ。そうするしかないのだから。
 そう自分に言い聞かせるような人生は、最低だ。あの苦しみは二度と忘れない。
 私は私の苦しみを一般化して大したことないと判断した連中を許せないし、そもそも私をそういう状況にまで追い込んだ社会を許すこともできない。

 私は人よりも弱いし、多分人よりずっと、愚かだ。頭はいいかもしれないが、体と心は愚かだ。わざわざ自分にとって損な方を選ぶタイプの人間だ。選び続けるタイプの人間だ。
 私の苦しみの理由は、確かに私自身にある。それは知ってる。だがそれが、自分の嫌いな連中と我慢して付き合う理由にはならない。余計な苦しみを背負う理由にはならない。
 私の苦しみは、私が私であるというだけで十分だ。それ以上の不幸も、争いも、抑圧も、罪も、罰も、いらない。
 私は私の過去をそっくりそのまま救い出すことを考えないといけない。かつての私は、いつまでも私に「助けて」と叫んでいる。同時に「誰も助けてくれなかった」と泣いている。どうしようもない事実だ。どうしようもない現実だ。
 私はもう、助けを必要としなくなった。助けを待つことも、呼ぶことも、やめた。意味のないことだった。それは連中の善意や悪意の問題ではなく、単純な能力と、趣味の問題であった。それは、どうしようもない問題だ。私個人の問題だ。だから……

 でももう過ぎ去ってしまったことを、どう解決すればいいのだろう? 昔のことを思い出すたびに、かつて自分が抱いた、どうしようもなくやり切れない思いが蘇ってくるのはどうしてだろう。憎しみまで湧き上がってくるのはどうしてだろう。
 どうやったらこの気持ちに折り合いがつくのだろう。今の自分が幸せだからという理由で、かつての悲しい過去がなかったことになるだろうか? それだけで、どうでもいい問題になるだろうか? なるわけない!

 そうあるべきだったんだ。そうでなくては、今の自分はないのだ。そう思うことは簡単だ。そうやって今まで、何とか前を向いてやってきた。きっと今回もそうするしかないのだと思う。でも実際のところ……きっと、そんな簡単に誤魔化していいわけではない気がする。もっとちゃんと考えて、答えを出す必要はないけれど、もっと……

 自分の話を書こうと思ったけれど、同時に「そんなものに価値はない」という声が頭に響いた。「つまらない人間のつまらない過去なんて書いて、何になるだろうか。意味もなく苦しむだけだ」という声が。
 その声に従っていいのか、振り切ればいいのか、私には分からない。手を取って導いくれる人はどこにもいない。優しい人はきっと「あなたの好きにすればいい」と言うか、あるいは「楽な方を選べばいい」と言うと思う。私はいつも迷ったとき、自分がしたくない方を選んできた。楽じゃない方を選んできた。その結果、損をすることは多かったけれど、トータルで見れば、素晴らしい人生を歩んできた。ならばきっと、次に私が書くのは、それだろうと思う。

 不愉快だ。悲しくて、つらい。いつもいつも、私は傷つけられて、それでも飽き足らず、自分自身でも自分を傷つけ始める。自分自身に復讐されるのを分かっていてもなお、私は私のことを傷つけずにはいられない。
 そうするのは、プライドか、それとも罪の意識か。もうどうでもいい。結局やることはひとつなんだ。あぁ。不愉快だ。

 私が自分の人生を物語にしたって、私が今までついてきた嘘のひとつになるだけだ。誰も見ないし、それを特別だとも思わない。くだらなくて、どうしようもない、ありきたりな人生。大切でもなんでもない、ただ痛くて悲しいだけの、感情の塊。

 私は意味もなく苦しむだけ。苦しみ抜いた書いたものを、誰も評価せず、ただ痛々しい現実を率直に綴っただけの……毒の塊として、ガラクタとして打ち捨てられるだけ。自分の胸から血を流して書いたとしても、そういう風になるのは分かりきってる。分かりきってるから、書くのだ。無意味だと分かってるから、書くのだ。価値などないと分かっているから、書くのだ。
 それを書けるのは私だけだ。無意味だと分かっていても、それを書くべきだと思えたのなら、私はそれをやり遂げないといけない。腹立たしいし、不愉快だ。でも人生とは、そういうものだ。人生は、無意味だから。無意味だからこそ、その無意味さの中で、自分がそうしなくてはと思ったのならば、それを成し遂げなくてはならない。希望がなくても! 誰の心にも響かないと分かっていても。打ち捨てられると分かっていても。くだらないと分かっていても! あぁ腹立たしい! 人生とは本当に腹立たしいものだ。現実とは!

 しんどい。

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