私の人生に価値はないけれど

 学校に行っていないと、まず第一として退屈する。だから、とりあえず家の中でできることは一通りやる。
 本を読む。絵を描く。墨で字を書いたり、塗り絵で遊ぶこともある。
 ゲームをしたり、お母さんと他愛のないことで喋ったりもする。

 ともあれそうやって自由気ままに生きていると、色んなことを思いつく。考えたことや感じたこと、全部書き残すわけにはいかないけれど、パソコンの前に座ると、ほとんど自動的にメモ帳を開いてキーボードを叩き始めている。
 なんだかそんな生活が幸せで、変な話だけどそれがずっと続けばいいなんて思い始めている。

 居心地がいい。夢も希望も未来も義務も責任も役割も何もなく、ただ自分の気分に従って生きている。

 もし私がこんなに考え込むタイプの人間でなかったなら「本当は働かなきゃいけないのに」とか「いつまでもこうしているわけにはいかない」なんて思ってしまうので、今みたいな幸せを噛み締める余裕はなかったのではないかと思う。
 考えれば考えるほどに、私には働く理由がないのだと確信する。男も別にいらないし、そもそも恋愛にそれほど興味がないのだ。家族が死んでしまってひとりきりになったら寂しいと思うけれど、それはそれで仕方ないと思う。私はひとりぼっちでも生きていける。
 そんな風に不安もなくぼんやり生きていることが心地よくて、幸せで、ずっと健康でいたいなぁとそんなことを思っている。

 人生に、そんな大した価値なんてないよ。そんな喜びに満ちたものでもないし、大げさな悲しみだって、長続きはしない。人間、肩の力を抜いて必要最低限だけやるべきことをやって、あとはその人の得意なことや好きなことをその人自身の気質に従ってやっていればいい。
 結果なんて出す必要はないよ。結果を出したって、そこにいるのは前と大して変わらないちっぽけな自分。他からの評価なんてものは風船が膨らむようなもの。
 運がよければちょっとずつ空気が抜けて最後には元通りになれる。運が悪いと破裂して、めんどくさいことになる。私は平べったいままでいいよ。傲慢でいるのは疲れたし、向いていないことを無理にやるのももううんざりだ。
 私はどんなに適当に生きていたって真面目にものを考えるし、その考えたものをどこかに飾っておきたいと思う。私は私のことが好きなんだ。だから、これでいい。

 さて現実的な話をすると、下書きがどんどん溜まっていて困ったことになっている。
 なんか一日に十個くらい記事を書く日が時々あって、一気に投下するわけにもいかず、ちょっとずつ小出しにするわけだけど……
 溜まりますよね、まぁ。

 別にね、もったいねぇなんて思ってないし、どうせ私の文章は全部埋もれてなかったことになってしまうだろうから、なんつーかなぁ。それでもやっぱりせっかくだからって思うんだよね。

 話変わるけど、なんか最近、自分の文章がほぼ確実に五十年後には私自身以外は誰も読まなくなっているという事実を普通に受け入れられるようになってきた。
 これって実はすごいことなんじゃないかと思ってる。
 なんていうか、消えていくのは分かっているけど、ただ何となく無駄ではないって思ってる。何かに繋がるような気がしているんだ。

 正直ね、偉大さに憧れる気持ちはあるんだ。名作を書きたいという衝動は、今でも時々感じる。ずっと読まれ続けるような作品が書きたいって、そう思うことはある。
 でもそれってさ、ちょっと違うんだよ。それって私が書く必要はないんだよ。いやどっちかっていうと……その話の方が、私に書かれたがっている場合だけ、私はそれを書くことができる。でも書きあげたらそれはもう私のものじゃないし、それが世に出て評価を受けたとしても、私という作家が評価を受けたわけではない。
 それは偶然と運命が運んできたようなものであって、私の意志と努力が実ったものではない。だから私の所有物でないのはもちろんのこと、私の成果でもない。
 なんて思うようになった。それが虚妄であったとしても、まぁいい。私は自分が無理に偉大にならなくてもいいということに気がついたし、私を読んでくれた誰かが少しでも私を意識して、何か大きなことを成し遂げてくれたら、ほんのちょっぴりは私にも貢献があるんじゃないかなぁと思ってみたりもしている。
 もちろん感謝されたいわけでも褒められたいわけでもなく、潜在的に、本人も私も気づかないけれど、見えない働き、影響として、私の言葉が誰かの心を動かして、その結果として産まれるべき名作の形が少しでも変わったなら、私自身の文章がまったくの無意味であったわけではないと言えるのではないかと、そう考えるようになった。

 ともあれ私は自由。
 世界がこの先どうなっていくのかは全然分からない。分からないから面白いし、希望もある。
 私自身の人生は、もうこの先私自身の意志でどうこうしようというつもりはない。流されるように流されていくだけだ。
 一番縁遠いと思っていたエピクロス派みたいな生き方をすることになるとは、奇妙なものだ。

 もっとも私は若いから、意見や生き方がころころ変わる。多分これが絶対の決定というわけではないと思う。
 きっとこの先もっと力を入れることもあるだろうし、絶望に囚われることもあると思う。どうしようもなく悲しくて死にたくなることもあるかもしれないし、実際にそれでまた死に触れてみることもあるかもしれない。
 でも今はとりあえず、もうこの先は何もしないというつもりで生きている。それが心地よくて、ずっと続けばいいと思っている。

 私の人生に価値はまったくないけれど、今は幸せだ。価値なんて、ほんとは必要なかったんだよ。

 幸せだ。でもこれはきっと、いつか軽蔑すべきものになるんだろうな。
 うん。それでいい。だからこそ安心して噛み締められるから。

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