普通の大人であることは簡単なことではない

 私の経験則ではあるが、おそらくほとんどの人が同意してくれることであると思う。

 もっとも高い立場にある人や、何かすでに大きな業績を残している人は、皆、そうと言われなくては分からないくらい「普通の大人」である。
 何か奇抜なキャラクターをしていたり、特別な考えを雄弁に語ったりはしない。
 ただ、物静かで、質問には丁寧に考えて答える人が多い。(分かりやすくて親切であるとは限らないが)

 何か特別なオーラがあったり、話す言葉に深みがある人ばかりでもない。ただ……その「普通の大人」であるということが、そう簡単なことではないのは、事実だ。
 つまり、その人は自分の足で立っている、ということなのだ。自分でものを考え、自分で決断するということに、難しさを感じず、それが当たり前のこととして生きることが出来ているということだ。
 それは、ただ何となく生きてきただけで身につくものではないし、色々な自分の望んでいない苦難や不幸を受け入れて、乗り越えてきた人間にだけできる身のこなしなのだ。

 大げさでない謙遜。細やかな気配り。目立っていても目立っていなくとも変わらない落ち着いた態度。他者を尊重する精神と、感じのいい微笑。
 普通の大人であるというのは、とても難しいことだ。私はそういう人と出会うと、嬉しくなる。無理のない尊敬の念を抱くし、失望することもないから、心穏やかでいられる。
 皆がそういう人間であれば、きっと私はこの社会で生きることに何の抵抗もないだろうなぁと感じる。

 現実にはそんな「普通の大人」は滅多にいない。ほとんどがそれを演じている未熟な大人ばかりで、ことあるごとに自分がどれだけ努力して「普通の大人」を演じているかアピールする。
 気を緩めた隙に馬鹿なことを言って失笑を買う。

 でも、彼らの本性が未熟なのは、彼らの責任ではない。だから、それを責め立てても仕方がない。

 おそらく私に足りないのは、そういう人たちの低劣さを大目に見るだけの寛容さであると思う。
 人を信じるということではなく、誰を信じ、誰を信じないか、自分の意志ですぐに決めるという素早さであると思う。誰を助け、誰を諦めるかという強くはっきりとした意思が、必要なのだと思う。

 私はまだ未熟な子供だ。「普通の大人」の態度を無理せず取ることのできない、青二才だ。

 人生は難しい。尊敬すべき人は身近にたくさんいる。でも、どう見習えばいいのか分からない。無理に演じても、自分がそれを望んでいないのなら、定着することはない。それは身をもって理解した。

 「普通の大人である」ということは「自分自身である」ということなのだろう。それは誰かになろうとすることではなく、自分の中の最も優れた自分自身であり続けるということなのだろう。
 他の人間からの悪影響を受けない、固い殻を持っているということなのだろう。

 あぁそのように生きることがいかに難しいか。
 うん。難しいからこそ、人生には価値があるのだろう。

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