掃き溜めに鶴

 ろくでもない人間たちの中に、ひとり、明らかに異質なものを持った人間がいる、ということが時々ある。
 彼がなぜこんなところにいるのか、ということだけで色々な想像ができる。でも想像は想像だし、彼が他の人に自分のことを話すことも滅多にないので、確かめることも難しい。
 優れた人というのはいつでも、その人自身にできる最も立派なことを、立派な態度でこなすことに集中しているので、自分を見ている人間のことなどあまり気にしない。

 周囲が下品な話で盛り上がっている時、彼は遠くの空を眺めている。
 彼の孤独が、彼の美しさなのだ。

 この世には色々なタイプの素晴らしい人たちがいるから、決してそういう人だけが褒められるべき人だとは、思わない。
 ただ、汚れた人たちの中で、ひとりだけ気高く生きている人を見ていると、何とも言えない気持ちになるのだ。人間というのは、なんて美しい生き物なのだろう、と思うのだ。

 私もそのように生きていたい、と思う反面、そのようになることができないというのは嫌というほど自分の経験から理解している。
 私にとっては、永遠の憧れなのだ。周囲の目を気にせず、自分のやるべきことに集中し、見苦しい行いを一切しない人、というのは。
 私はどうしても誰かと一緒にいると余計なことを言ってしまうし、笑われても文句が言えないようなことを今まで何度もやってきたし、これからもしてしまうと思う。
 私は泥遊びが好きだから、いつもどこかしらを汚しているような気がするし、だから、本当の意味で綺麗な心を持った人を見つけると、なんだか私は、自分自身が情けなくなって、恥ずかしくなって、それでも、そういう風な気持ちになるのは、嫌じゃないというか……まぁ、不思議な気持ちになるのだ。

 最近気づいたことだが、私は孤独になりきれない人間らしい。
 そもそも文章を書くということ自体が、他者の存在を前提としているものだから、結局私は、自分ひとりのやることだけに集中できる人間ではないのだ。
 ひとりよがりで自分勝手な性格でありながら、ほどほどに他の人のことを気遣って、なんだかんだ互いに良好な関係を保つタイプの人間なのだ。言い換えれば、平凡な人間なのだ。

 この時代の大衆は悪趣味で(まぁどの時代でも、大多数が愛好するものはそうかもしれないが)私はどうにも、同年代の子たちとフィクションの趣味も、好ましいと思う人の趣味も合わないけれど、それは私たちが互いに感じる「普通」の範囲が異なっているからで、そういう事実が私の平凡な人格や生き方を覆すわけではない。

 素敵な人のふりをしている人よりも、実際に素敵な人が好きだ。生き方が綺麗な人が好きだ。ひとりでいるときの立ち姿が綺麗な人が好きだ。
 他の人のことを、自分と対等な存在であるということ以外には何も意識していない人が好きだ。
 ある意味、他の人のことが気になって、より広く、より詳しく認識しようとする私とは、正反対の人が好きだ。
 悲しいことに、そういう人が私に興味を持つことはないと思う。それでいいと思う。興味を持たれたって、私は恥ずかしくなってしまうだけなのだから。

 私はひとりで美しく立つことはできないけれど、ひとりで、自分の目で、ものを見ることはできる。ものを考えることはできる。
 私は美しく生きることができないから、せめて、美しい生き方を美しいものとして、曇りのない目で見ていたい。美しい人の生き様を、美しいものとして認識していたい。


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