言い換えや言い直しを多用する理由

 新聞や教科書にはあまり見られない表現技法であると思うが、小説や評論ではよくよく見かけるものであり、私自身も好んで使う技法がある。

 それは言い換えや言い直しだ。同じ内容の言葉を、あえて別の言葉で言い表すことだ。
 意味合い的には同語反復なのだが、しかし人間というのは一度の表現でその意味を必ずしも正確にくみ取れるわけではないので、理解を助けるための「確認表現」でもある。

 私はできるだけ自分の考えが正確に伝わればいいと思っている。誤解されたまま次の文章を読まれたくないのだ。

 それは言い換えや言い直しだ。同じ内容の言葉を、あえて別の言葉で言い表すことだ。


 先ほどの私の言葉だが、まさにこれが「言い換え、言い直し」の表現だ。

 一つ目の「それは言い換えや言い直しだ」という文と「同じ内容の言葉を、あえて別の言葉で言い表すことだ」という文は、ほとんど意味合いが同じであり「あえて別の言葉で」というのも、わざわざ言葉にしなくても読み手が自分で補完できる情報である。私はそれ以前に「技法」と言っているから、それが意図的なものであることを情報としてすでに示されていて「別の言葉で」という点においても、言い換えや言い直しが、まったく同じ表現によって行われるということはあまり考えにくいことなので、この二つ目の文「同じ内容の言葉を、あえて別の言葉で言い表すことだ」の中には、新しい情報は一切含まれていない。
 つまり、二つ目の文は、悪い言い方をすれば、「無駄な文章」なのである。

 しかし、はっきり言って、文全体の意味の理解を助ける文章は、このような文章なのである。
 これは文章の骨格を支える補助のような働きをする。先ほどのように論理的に考えれば確かにこの文章は「不必要な文章」ではあるのだが、しかし直感的に、経験的に、想像的に、読み手の側に立って考えてみれば、このような「先ほどの文章の言い換え」というのは、読み手が文を理解するのにとても役に立つ。
 情報を薄めているのではなく、情報の輪郭をさらにはっきりさせているのだ。「このように理解してくれ」と念を押しているのだ。

 このような無駄なところを含まない文章は、その輪郭を掴みづらい。
 たとえばあなたが新聞の一面をざっと通読したとしよう。それを閉じた後、目の前の人がその新聞を受け取って、そこに書いてあった細かいデータについての質問をあなたにしたとしよう。それに答えられる人間がどれだけいるだろうか? それどころか、その文章のもっと重要な部分についての質問すら、多くの人は答えられないことだろう。
 新聞の文章は、情報の密度は高いが、それを読み取って自分の中で消化するのには適さない文章だ。同じ言葉の言い換えが全くない分、その文章の意味を読み解く前に、次の文章を目で追ってしまっているのだ。自分の中で情報がはっきりと形を持つ前に、別の形を持った情報を頭の中に仕入れようとしてしまっているというわけだ。
 私の知っている限り、非常に勉強がよくできて、高い立場にあり、記憶力のいい人間であっても、情報の見落としや、その輪郭が曖昧なまま記憶していることがよくあるように思われる。文章を読むのが得意な人間でさえ、そこに書かれた情報の半分も、自分の中で噛み砕けていないのである。
 文章を噛み砕けているかどうかは、自分の言葉で正確に言い直せるかどうかや、そこに書かれていなかった補足情報を、自分のまた別の記憶から取り出して、人を説得する材料として適切に用いられるかどうかなどだ。要は、そこで得た情報を自分自身の中ではっきり捉えられるかどうかなのだ。

 言い換えや言い直しは、書き手にとっても読み手にとっても、情報を確定させるうえで非常に有用な技法だ。
 文章を読み慣れている人間なら、過度でなければそれに冗長さは感じないし、ひとつひとつの文の意味が、頑張らなくても頭の中に入ってくるので、頷きながら読むことができる。

 難しい内容について語ろうとするときほど、私は言い換えや言い直しを多用するようにしている。

 人を説得するためだけなら「言い換えや言い直し」よりも、たくさんの根拠を並列的に並べた方がいいかもしれない。
 しかし人に自分の意見を理解してもらうためなら、根拠よりも、自分の言いたいことを何度も繰り返して、それについて相手の頭に沁み込ませるのがいい。
 根拠は、読み手の側が自前で用意してくれるものだと私は考えている。
 それが正しいことならば、根拠は考えて探せば必ず見つかるものだ。もちろん、それが間違っていることでも、その気になればそれらしい根拠は見つかる。私がそれを述べたところで、大した意味はないのだ。
 根拠というのは、それを理解するのに役立つ分だけ述べて、それ以外の根拠になりそうなものはあえて黙っているのがいい。そうすれば、人は私の言っていることをちゃんと疑ってくれるし、その人自身の中で確かめてみることもできるだろう。

 人は常に正しいことを言うわけではないから、常にそれぞれが、誰の発言に対しても懐疑的になっている方がいい。
 実際、権威ある人や、その場で最も賢い人が、致命的な矛盾を抱えた意見を持っていることは珍しいことではない。より多くの根拠を持った推論が、もっとも確からしい推論というわけではないのだ。特に根拠同士が矛盾している場合は、とても疑わしい。
 このインターネット社会では、特に、根拠と呼ばれているものの一切は信用するに値しない。ウィキペディアの記事の引用、参考元が多ければ多いほど、その内容に信憑性があるわけではないのと同じだ。百個の引用、参考文献があっても、それが恣意的に選ばれた偏ったものであるなば、その数自体が、情報の正確さに対する危険に変貌してしまう。ひとつひとつの文献を調べて、内容がそれと一致していることを確認したところで、その情報に反するような文献が抜け落ちているならば、もはやそれだけでその記事の内容は疑わしいものに変わる。
 根拠があればその情報は疑わなくてもいいわけではない。むしろ根拠自体が、人を説得するための道具である以上、人を騙そうとしたり、矛盾したことを人に信じ込ませようとする人ほど、より強力な根拠を用意してきたりする。
 頭のいい人間は、根拠の使い方を熟知している。ものごとの疑い方を知らない人間に対して、どんな馬鹿げたことでも、もっともらしい根拠とともに語り、それを信じさせてしまうことができる。
 だから、私は自分の言うことを信じてもらいやすくするような根拠の述べた方はしないことにしている。それは人の頭を悪くするし、人の頭が悪くなれば悪くなるほど、私の言いたいことは伝わらなくなるからだ。


 何はともあれ、音楽を理解してもらうように、文章を理解してもらうのがいい。
 その人自身の中で、自然と同じ考えが浮かぶようになるような文章が、私にとって理想的な文章だ。作曲家が、自分の作り出した音楽が、誰かの頭の中で繰り返し流れることを望むように、私は自分の思想が、他の人の頭の中にも描き出されることを望んでいる。

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