自分という檻
自分という世界で生きている人間と、みんなという世界で生きている人間がいる。
自分という出られない檻の中から、時々手を出して他者と関わる人間と、社会という出られない檻の中で、時々隅の方に行ってひとりきりになって自分というものを探そうとする人間がいる。
そこで二人は出会うのだ。人に囲まれて、自分というものを見つけて、それを知りたいと思った人間は、ずっとひとりぼっちで生きてきて、自分以外のものを見つけてそれを知りたいと思った人間と、部屋の隅、壁越しに手を繋ぐ。
「あなたは何を考えているの?」
部屋の中の人間はそう尋ねる。檻の中の人間は答える。
「あなたはまだ何も考えていない」
部屋の中の人間は顔をしかめる。
「伝わるように言ってくれなくちゃ分からない」
檻の中の人間はうんざりする。
「あなたが受け取れないのは、あなたが受け取るべきでない人だからだ」
部屋の中の人間は懇願する。
「私もそちら側に行きたい」
檻の中の人間は拒絶する。
「こちら側は、あなたが思っているほどいい場所ではない」
「しかし、あなたはいつでもこちら側に来れるのに、そうするつもりがないということは、そちらの方がいい場所であるということなのではないか?」
「それは、そちら側での理屈だ」
「私はそちら側の理屈が知りたいのだ」
「なら、私の手ではなく、自分の心臓を掴むべきだ。この檻には、ひとりしか入れないのだから」
人間は動く檻だ。私たちは私たちから逃れることができない。
人はひとりでいることを怖がって、たくさんの人と同じ檻の中に入ろうとする。それを部屋とか家とか呼んだ。それが嫌になって、飛び出すと、そこにあるのはやはり別の檻なのだ。私たちは私たちから逃れられない。
誰かの背中に手を触れると、その手で感じる心臓の鼓動が、檻の中で息づいている魂の証拠にように感じる。私たちはみんな檻の中に囚われている。繋がりたいと思うのに、繋がれば繋がるほど、そこは刑務所のような有様になる。私たちは本来檻ごと動くことができるのに、他の檻の隣に居ようと思うと、立ち止まるしかなくなるのだ。成長することが、できなくなる。
きっとそれが、大人になるということなのだ。居心地のいい居場所を見つけ、そこから動くことを諦める、ということ。そこに他者がいるかどうかは重要じゃない。ひとりきりで大人になる人間もいる。
言い換えれば、大人になるということは、家を建てられるということなのだ。自分の家を持つ、ということなのだ。それが大きい家でも小さい家でも構わない。誰かを招待できるような設備があるかどうかも問題ではない。それは趣味の問題だからだ。
いつでもどこでも、精神的に安心できる場所を自分で作ることができる。きっとそれが、大人であるということなのだ。
私はきっと、すでに大人になるのに十分なほど精神が成熟している。でも頑固で、愚かだから、自分で試しに作った家を建てては壊してを繰り返している。そのたびに、私が壊した家とよく似た家に住んでいる人を傷つける。
これじゃない。これじゃない。これじゃない。これじゃない。
私の家はどこにある? ここにはない。ここではない。
そうして、私は誰かと手を繋ごうとする。そこで、また別の家を見つけては、否定する。それは私の生き方じゃない。
道に迷っている。
自分という檻をどこに置くか、ということで悩むことも、きっと自由にとってひとつの必然性なのだろう。
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