言葉をもっと軽やかに

 私はかつて「言葉は重みを持っていなくてはならない」と言った。

 でもよくよく考えてみれば、その言葉自体が重みを伴っていないじゃないか、と笑いたくなってくる。いや、もうすでに笑ってしまっている。

 言葉の持つ重みとは何であろうか? それは未来に向かって行動を強要することではなかろうか。
 つまり「汝為すべし」と「汝為さざるべし」こそが、言葉の重みの正体であったのではなかろうか?
 それ以外に『重い言葉』など存在しないのではなかろうか? とするならばこの重みは言ってしまえば、単なる足かせに過ぎないのではないか? それも、己と他者の両方を繋いで縛る絆!

 あぁ馬鹿馬鹿しい言葉だ! 絆なんて、クソクラエ!


 私の言葉はいつでも軽かった。どんなに深刻なことを語っていても、どこかその仮面の裏に喜びを感じていた。
 自殺のことや、人生の苦しみを語る時、私は生を謳歌していた。陰鬱とした文章を、目をキラキラさせながら紡いでいた。
 あぁなんと無邪気であることか! 私の無邪気さは、他人を陰鬱にすることに対して驚くほど無感覚であり、同情の欠片もなかった!
 そうだ。私が「私の文章が誰かの人生を狂わせてしまうかもしれない」と呟く時でさえ、心の内では「本当にそうであれば、素晴らしいことだ!」と笑っていた。

 そうだ! 世界は楽しいおもちゃであり、どんな悲劇的なことも、言葉にしてしまえば一種の喜劇に変わるのだ。だってそうじゃないか。言葉にしてしまえば、そこにいるのは「読んでいる私」だけであって、それを実際に現在進行形で味わっている人間など「その場に存在しない」のだから! 言葉にした瞬間に、全ては他人事に変わるのだ!

 他人事! そう! 私が私を語る時、私は私を他人だと思っている。
 「私は」と語る時、私は一種の仮面を被っているのであり「どんな人間を演じようか」と無意識の中で選択しているのだ。

 楽しい! 私はこれがとても楽しい! 人生は、その真面目さすら、一種の演技であり「うん。たまには真面目にやってみよう。それも悪くない!」という気楽さゆえの真面目さなのだ。
 「真面目でなくてはならない」という時でさえ「真面目でなくてはならないと言ってみたら、どうなるかな? 試してみよう」というような、悪ふざけが半分含まれている。

 私たちは楽しみに飢えた子供なのだ。だから、真面目さを愛好する。馬鹿みたいに! まったく、それで楽しくなくなってしまっては、本末転倒ではないか? いや、そもそも私たちは、真面目と言うこと自体が楽しくて仕方ないから、どれだけふざけてもその真面目さに結局のところ戻ってきてしまうのだろうか?
 確かに舞台上で我に返って笑ってしまうよりは、真面目さを最後まで通したほうが、あとでもっと大笑いできる。
「あの時の私はなんて真面目で、健気だったんだろう! 我ながら、可愛らしくて撫でてやりたくなる!」
 舞台を降りた女優がそう思うかのように、私たちは恋を終えるとそう思う。

 さぁ言葉でステップを踏もう。私たちは何にでもなれる。

 文章で、実際の自分を演じるなんて、悪趣味なんじゃないか。無色透明を演じるなんて、悪趣味なんじゃないか! 顔のついてない仮面を被った新聞やネットニュースは、もううんざりなんじゃないか!

 そうだ。文章というのは好きなように偽って、嘘をついて、面白がらせることができるツールなのだから、もっともっと軽くなろうじゃないか! 風のように、爽やかに、素早く、笑みをこぼして、駆け抜けようじゃないか! 人生を! もっと軽やかに!

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