親切心は能動的に
これはおそらく万人に当てはまることではなく、一種の類型に属する人間にしか当てはまらないことであると私は思う。
私は人に親切にするのが好きだが、人から親切心を求められた場合はその限りじゃない。
具体的な例を出すと、母から急に「私今日疲れてて体調悪いから、掃除洗濯、夕ご飯もお願いね。九時ごろにお風呂も沸かしといて。よろしく」と一方的に言われると腹が立つし、めんどくさくなって母が嫌いな野菜をわざわざスーパーで買ってきたくなってしまう。(もちろんそんなことはしないし、やるからには最低限ちゃんとしたものを作るけれど)
実際、そういう風に押し付けられた仕事というのはやっていてとても気分が悪いし、あとで「ありがとう」と言われても、素直に受け取れない。むすっとしたまま「どういたしまして」という返事を言うしかない。何というか、自分が「いいことをした」という感覚はなく「やりたくないことを何とかこなした」という感覚しか残らないからだ。
あるのは仕事からの解放感だけで、喜びや愛情みたいなものは湧いてこない。雇われた召使いの感覚だ。
それに対し、相手から言われる前に自分で考えて「こうした方がいいな」と思ったことをやって相手が喜んだ場合、私はその親切を楽しく行えるし、たとえうまくいかなくてしょんぼりすることがあっても、腹が立ってひどいことをしようという気にはならない。「次はもっとうまくやろう」とすぐに前向きな気持ちに切り替えられる。
親切心は、自分から行動に移した方が、自分にとっても相手にとっても気分がいい。生活の知恵である。
おそらく人間には「人のために動けるタイミング」というものがあって、そのタイミングが来ていないのにそれを求められると気分が悪くなってしまうのだと思う。
逆に言えば、誰しも「人のために何かをしたい」と思うタイミングがあって、それを見逃さずに実行することによって、何の重荷にもならない、純粋な善意ゆえの見返りを求めない親切心が産まれるのだと思う。
だからこの話で重要なのは「誰かに利するような思い付きがあったとき、それを迷わず実行する」という生活の態度である。同時に「人から求められた優しさや親切心に対して、不快に思うことは悪いことじゃないし、断ってもいい」という自分を大切にする態度を持ち、そのふたつの態度を矛盾したものではないと捉え「自分は常に親切な人間でも、常に不親切な人間でもない」という人間の一般的な生き方を自分自身に認めることであると思う。
私たちは、善良さを押し付けられることが多い。
「君はいい人だから、手伝ってくれるよね?」という言い方をされると、断ることが難しくなってしまう。
それに対して一度でも断ってしまうと「自分は薄情な人間だ」という自己認識を持ってしまう。誰かに対して親切にしたいと思ったとき「私は人に親切にできるほど情に厚い人物じゃないし、情に厚い人物だと勘違いされて、また別の時に頼られるのも嫌だ」と考え、その親切心を隠してしまうことも多い。
そうならないようにしよう。
私たちは私たちの好きな時に人を助ければいいし、そうじゃないときは人に冷たくしてもいい。
自分勝手な人間であろう。そうであれば、他人の自分勝手さも許せるし、人生を気楽に歩むことができる。
親切であるのは、内側から親切にしたいという気持ちが湧いてきた時だけで十分だ。だから、人に親切にしてもらえなくても、その時はたまたま相手の気持ちがそうじゃなかっただけだと思うことにしよう。
人は本質的に善でも悪でもない。そう見えるのはたいてい勘違いである。単なる気分の問題である。
私たちは人間らしくあろう。