見出し画像

パクっちゃダメなものと、OKなもの

誰かのアイデアややり方をパクると「盗作だ」とか、「猿真似だ」とか否定的な指摘がある。だけど、ホントに全てがダメなんだろうか。「パクることは悪い側面ばかりではない」と言えば、いくらか賛同してくれる人もいるように思うのだけど、どうだろう。

「パクる」という言葉の語源にはあまり興味もなくて、調べてみても大した意味はなかった。表層を調べてみると、「パクリと大口を開けて丸呑みする様子から窃盗の隠語として使われるようになった」とか。明治時代には使用されていたようだ。窃盗とイコールなら、たしかに良いことではないね。


学ぶ+習う=学習

語源ついでに、盗むではなくて「マネする」という言葉から生まれた言葉を考えてみる。いわゆるコピーだ。コピー商品なんて、全然良いイメージは無いね。

学ぶ「まなぶ」の語源は「まねぶ」だったらしい。これは、漢字が日本に伝わってくる前から大和言葉として使われていたから相当古くからある表現のようだ。「まねぶ」は「まね」の動詞変形だから、真似をすることがすなわち知を習得することと同義だと考えられていたということになるのかな。どうやら、盗むのとは違っていて真似をすることは良いことのように感じてきた。

さらについでに「ならう」だ。漢字で書くと「習う」「倣う」と複数の表現が出てくるけれど、やはり大和言葉として考えるとどちらも同じ意味だったということになる。(大和言葉っていうのは、文字が無くて音だけで表現していたからね。日本には元々文字が無かったんだよ。一応知らなかった人のために。)「ならう」は教わるという意味の他に、同じ動作をすることだったり同じ状態を作り出すことだったりを示している。小学生の頃に「前へ倣え!」って号令があったよね。あれだ。

師匠のやることなすこと全てを完全に真似する。例えば、料理の世界。親方の技、段取り、考え方、目利き、盛り付け、読む本、仕事のスタイル、など何でも真似をする。そうすることで、師匠の仕事ぶりをすっかりコピーするというのが古い時代の職人世界にあった「ならう」であった。と聞いたことがある。古い体質を批判する人もいるけれど、これはこれで成立していたんだろう。師匠の全てを完全にトレースすることが出来るのだから、伝承するうえでは最も効率が良いとも言える。師匠と一緒に仕事をしているうちに、いつの間にか「ちっちゃい師匠」が心のなかに住み着き始める。そうなれば、もう大抵のことは自分とちっちゃい師匠とで解決できるようになって、一人前ということだ。

つまり、「盗むのはいけないけれど真似をすることは良い」と考えたら良いのかな。


師匠じゃない人からのコピー

師匠は「真似をしろ」「盗め」と言う。それは昔から言われていることだから、聞いたことがある人も多いよね。これは、パクられる側の人が了承しているから問題ないのだけれど、それ以外の場合はどうなんだろう。結論から言えば、ぼくは問題なしだと思っているんだけどね。さて、考察を進めていくとして、どうなるか。

赤の他人にはアイデアや技術をパクられたくない人がいるとする。まあ、いるよね。その場合、どうするだろう。例えば、タレとか?鰻屋さんの秘伝のタレは、秘伝と言っているのだから配合を公開しなければ良い。それだけで、パクられにくくはなる。だけど、味覚の鋭い人が味見したら分かっちゃうかも。だから、食べさせないという方法もあるかも知れないけれど、商売にならない。これはもう、パクろうとしている人が努力をしたのだから良いんじゃないだろうか。

「公開されている情報から推察する」を経て「技を盗む」に至る。これは、努力の範疇だと考えられる。ここまでは良さそうだ。

では、公開されている情報をパクったとして、努力の域を超えて問題になるのはどんなケースだろう。

明らかに本家の模倣を公言している場合。これはマズイだろうね。ミッキーマウスの絵を書いて、それをミッキーマウスだとして販売していたら怒られる。これはダメだ。商用利用だからかな。それとも、公言したらダメなのか。例えば、小学校や幼稚園でなにかのオブジェのようなものを子どもたちが創作するとして、そこでミッキーマウスやトトロを作ったとしたら。これは、まあ良さそうな気もする。本家も目くじらを立てることもないかなあ。権利を持っている人次第なのか。

そもそも、権利があるものかどうか、というのは問題になりそうだ。その場合でも、権利者がダメだと言うかどうかは気持ちの問題でもあるのか。侵害されたと感じるかどうかだろうね。

別の例で考えてみるか。絵だとして、誰か有名な人のタッチを真似たらどうだろう。有名人が描いたものだよって言ってしまうと、それは詐欺になるけれど、影響を受けたという程度ならば問題ないよね。インスパイアされました、という創作物はたくさんあるくらいだし。嘘をつかないのは当然のことだとして、要素を吸収することは良いのだと思う。これは、音楽でも絵でもいろんな創作物で見られる現象だからさ。

料理の話をしよう。中華料理。これは、中国料理とは違っていて「中国風の料理」という意味なんだって。だから、ラーメンや餃子が完全に日本で発送されたものだけど、インスパイアされたものということだから中国の人もあまり怒らないらしい。むしろ、これだけ日本化されているのに中国にリスペクトがあるように感じるんだって言ってた。ただ、これは日本のものだと言い切ってしまうと不快に思う人もいるんだろうね。なんとなく、パクるの境界線が見えてきたような気がする。どうでしょう。


パクる。の境界線とその意義

パクる(模倣する)にも、OKなものとダメなものの境界線を整理してみる。元になっている対象に敬意があるか。これがひとつかな。あとは、全部ではなくて要素を取り入れる。これがもう一つ。

料理もそうだけど、音楽や絵画、建築や工業製品に至るまで、全てのものは模倣の積み重ねで進化しているという側面がある。誰かが新しいことをやり始める。そしたら、それを土台にして更に新しいことを積み上げていく。そうやって進化してきたのが人類だとも言える。「私が何かを成し遂げたのだとするのなら、それは巨人たちの肩に乗ったからだ。」というようなことを偉人たちは言っている。ニュートンとか、アインシュタインね。だから、一概に「パクるな」と全てを縛ってしまうのはよろしくないのだろうね。

落語の世界で、古典落語をやるのもそうだし、今では古典落語と言われている話でもかつては新作落語だったりもするのだけど、そういう話を練習して高座に上がることで新しい命が吹き込まれていく。そんなことも聞いたことがある。

今回、パクるについて考えるきっかけになったことがあってね。とあるニュースで、料理研究家がお互いに「レシピをパクった」と言い合っているのを見たんだ。ぼくは、それに違和感を覚えたのね。条件を見たら、ぼくでも思いつきそうなレシピなんだもの。結局、知名度が高くて先にネットに公開した人が勝ったような雰囲気になっていて、知名度の低い人が謝ることで決着したみたいだけど。正直ナンセンスだなあと。パクられたくなかったら公開しなければいいし、公開したのであればパクられることは想定内だと思うんだよね。もっと言ってしまえば、レシピは絶対じゃないということだ。あくまでも要素でしかない。調味料も食材も全く同じじゃないわけだし、作る人によって味が変わるわけだし。そんなことで争うなんて変だなあと思ってね。

そんなこんなで、パクるの境界線を考えてみようと思った次第です。例によってですが、一人で悶々と考えていても広がりがないので「書く」という作業を通して考察してみました。あんまり面白い決着にはならなかったなあ。

機会があったら、もう一度取り上げても良いかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?