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「つまらないコンプレックス」について

ぼくは「つまらない」にんげんであり、
「つまらないコンプレックス」をかかえている

目的地へむかって最短距離をあるく時、会話であいてが望んでいる返答をさがそうとする時、文章を書きながら「正しい」表現をえらぼうとする時あるいは「つまらない自分」に気がつき、意識的に「おもしろい」選択にふりむく時、そんなとき、じぶんが「計算機」かなんかのように思えて心底がっかりする。

ようするに、クリエイティビティに欠けているのだ。

「おもしろい」ひとはかっこいい。

正義とか倫理とか合理性などの枠からはずれた思考を無意識的におこない、それにともなう罵声を華麗に通りぬけてつき進む人たちがいる。けっしてバカなわけではない。いや、ある意味ではバカなのかもしれない。そのひとたちには常軌をいっした狂気がある。

「だれかのため」に行動し「だれかの期待」に応えれば、確実に社会的評価や自己肯定感をえられる。だれにも批判されないし、ほめられて報酬がもらえることが約束されている。合理的で倫理的。そしてうつくしい。よって「正しい」。「正しい」からついそうしてしまう。

だから「つまらない」んだ。

noteを書く時、写真を撮る時、少しでも「受け」を意識してしまえばそれは「真」ではなくなる。需要をみて供給すればある程度の成果はでるだろう。しかし周りを見渡せば似たものが並んでいるわけで。そもそも、需要がある物は既存するということで、既存の物を新たに開発しても仕方がない。そんなのはAIにでもやらせておけばいい。

Amazonは売れてる商品を自社ブランドで模造し、既製品よりすこし安く売るやり方を採用している。消費者はおなじような物であれば安い方を選ぶだろう。
Netflix独占配信の映画を観れば「人気な映画のいいとこを詰めこみました」てき内容で、どのシーンにも既視感をおぼえてしまった。

資本主義社会てきには正解なんだろうけどな。

非合理的な思考、非合理的な選択、非合理的な行動だけに神秘がある。独自性、おもしろさがある。売れない作家、売れない歌手、売れない画家、それでも続けるそのひとたちが創るものこそ尊い。

無駄に歩くだけの日は最高だ。一日中チケットを取るのに苦戦することがあったっていい。だれかの期待に応えるだけの、だれかのための一日よりも、少なくとも「じぶんのため」であっただけ素晴らしい。

「だれかのため」の方が「得」だし「安心」だし「気持ちいい」のは百も承知した上で、それでも「じぶんのため」だけにする度胸から「おもしろさ」が生まれる。「ヨノタメ、ヒトノタメ」に逃げてたら「創る」なんてできない。そういうのは「創った」後になって売るために「語る」ものなんだ。

人生は自由だ。「自由」を存分に「無駄」につかいたい。「無駄」を「お金稼ぎ」に使おうが、散歩しようが、「無駄」は「無駄」なわけで。「わかりやすい無駄」か、そうでないかの違いしかない。「無駄」をしっかり認識した上で、どこまで愚鈍にやっていけるか。「おもしろさ」はそこにしかない。

「いいね」がなんだ、「映え」がなんだ、「エモ」がなんだ。そんなもののために生きるわけでもクリエイトするわけでもないだろう。

「おもしろく」生きたいひとが、「お金のため」に大衆に迎合してしまわないように、世界が「つまらない」に埋もれる前に、きしださん、あなたがどなたか詳しく存じませんが、ベーシックインカムとやらを、実現してくださいな。

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