ウッ…持病の駄文垂れ流したい病が…

発症したのでnoteという名の産業廃棄物処理施設に垂れ流していこうと思う。

 先日、近所の小学生が親ガチャという言葉を連呼しているのを聞いた。一時期かなり批判された言葉だが、私はあながち間違ったものでも無いと思う。

世の中というものはどこまで行っても運否天賦である。書かれた目の数が違うサイコロを天に放り投げてより大きな目を出した者が勝つ、というのがこの世の中の本質だ。

当然の事だが、大きな目を出すためにはサイコロに書かれている数字がより大きなものである必要がある。1~6の目が出るサイコロよりも2~7の目が出るサイコロの方が大きい数字は出やすい。

このサイコロは遺伝だったりまわりの環境であったり、自分では操作できない要素によってその数字の殆どが決定されてしまっている。自らの努力によって書き込める数字はせいぜい10面サイコロの1面分くらいのものだ。

このカラクリに気がつかなければ親ガチャという言葉を口にすることも無く、幸せな人生を送れるだろう。だが気がついてしまうと、この世界には努力では覆すことが困難な『生まれ』という名の大きな壁があるとわかってしまう。

昔は子供の頃に触れる世間というものは学校がそのほとんどであった。多くの人が通っていたであろう公立の小中学校では、多少の差はあれど『生まれ』の違いを思い知らされるような人と出会うことはそうそう無かった。

だが現在はインターネットという広大な海があり、SNSという本来出会わないはずの『生まれ』の違う人の生活を覗き見れる最悪のツールがある。
だから否が応でも感じ取ってしまうのだ。

「あれ?自分は努力しても手に入れられないものをコイツは最初から持っているぞ」と

そして親ガチャという言葉が生まれることになる。
親ガチャというのは今を生きる人々の心情の吐露なのだ。


親ガチャを理由に努力を無駄なものと切り捨て、放棄しようとする者もいるが、これはやめておいた方が賢明だ。
自らの生活を良くするためには結局、なんらかの努力をしてサイコロに大きな数字を書き込むしかないからだ。他人と比較するから苦しくなる、自分と比べるべきである。
とどのつまり親ガチャは紛れもない事実だがそれを言い訳にするのはやめようという事だ。

なお、努力をしても必ず良い結果が得られるとは限らないのであしからず。
結局世の中運否天賦

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