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自己犠牲と、愛や優しさを履き違えていた。





わたしは昔から、本当に昔から、
自己犠牲 と 愛 や 
自己犠牲 と 優しさ を履き違えていた。


"自己を犠牲にして行う優しさは、結果的に誰も幸せにならない。" と

知っていたけど、ずっとわかっていなかった。


優しさや愛は
すごくすごく繊細で

そこに自己犠牲を払った途端、エゴに変わってしまうもの。

そしてそれは、自分含め関わった人全員を
最後には傷つけてしまうことになる。


自分がどれだけ辛く苦しい状況であっても、助けが必要な誰かに手を差し伸べてしまうのは、わたしの良いところでもあり、悪いところで。
良い方に振るには、けして自分を蔑ろにしてまで誰かを優先しないこと。


けれど今までのわたしは、自分を一回投げ出してでも、誰かの元に走っていた。

親、友達、恋人

とにかく、助けが必要な誰かの元に。


本当は誰より、わたしが助けてほしかったのに。


そんななけなしのエネルギーはもちろん長続きせず、いつも中途半端なところでわたし自身が崩れ、手を握っていたはずの相手と自分も一緒に落ちてしまえば、それは結局、優しさとは遠く遠く離れてしまうのだった。



そして同じく、似て非なるものは
エゴ と 愛
エゴ と 優しさ。

自己犠牲もエゴの一環であると常々思うが、
今回はあえて別々に。


"助けてあげよう" "助けてあげた"
その思考は知らぬ間に、相手も、自分自身も、その全てを崩してしまう。

"誰かの為に"という思考は行き過ぎると、"誰かのせいで"に姿を変える。


相手が自分のした分と同じように、
はたまたそれ以上に、
自分が辛いとき手を差し伸べてくれなかった瞬間


愛だと思っていたものは、エゴだったんだと気付く。


そして気付いた頃には、怒りと憎しみも追加され
どんどんと大きな"黒"になっていく。


何故、どうして、と
相手を責め続けるのと同時に、
なんて嫌なやつなんだと自分を責め始める。

そのループにはまってしまったら、長いこと出てこれないどころか
出てきたあとも傷跡は残り、心にぽっかり空いてしまった穴も
一度見えてしまった自分の"黒"も、忘れるのは困難だ。


言わずもがなわたしも、その一人であった。


人生で一番大きく、身をもって体感したのは25歳のとき。

あの頃の状況は一言、
この世の終わりだった。

死ぬことばかり考え、孤独感に苛まれ、
自分を嫌い、人を憎み

そんな生活を1年半くらい、毎日繰り返していた。

それ以降
毎日繰り返していた日々はなくなっても、
不意に怒りと悲しみが襲ってきて死にたくなる日は、数えきれないほどにあった。

徐々に、本当に少しずつ薄れていっても、
そこから完全に抜けるまでにかかった時間はトータルで2年半。

正直、抜けられたと感じたのは極々最近のことで
一生抱えていくのだろうかと諦めもしていたものを、肩にのしかかっていた重りを、ようやくおろせたような気がした。


(どうやって抜けるまでに至れたのかは、ひとつ前の投稿に書いたことがすごく大きいので、今現在同じような状況にいる人は是非読んでください!)




わたしは確かにずっと、履き違えていた。

自己犠牲とエゴを、愛や優しさだと言い聞かせ、思い込もうとしていた。


ではその定義とは何か?


それは未だもってわからない。


けれど唯一わかることは、
履き違え、自らループにハマっていったところから脱したわたしは今


誰よりも、誰に対してよりも、
わたし自身に優しいということ。


自分の中の全ての感情に蓋をせず、労わり、声を聞き、正直でいる。


そう、気づいてみたらすごくシンプルなことで

順番を逆にしただけ。



自分を一回投げ出してでも、誰かの元へ走っていた。

でも今は、

助けが必要な"誰か"にピントを合わせる前に
"自分"にピントを合わせること。

自分自身を投げ出さないと出来ないことならしないこと。

そして

助けたい"誰か"をちゃんと助けられるように、
まずは"自分"の声に耳を塞がず、目を逸らさないこと。


自分に素直に。 なんて
よく聞くワードだけれど、
知っていても、わかっている人はどれだけいるだろう。
実践できている人は、どれだけいるだろう。


わたしも、わかっていなかった。
自分をいつも後回しにしていた。
誰よりわたしのことがわかるはずのわたし自身が、誰よりも蔑ろにしていたのだ。


一見人に冷たくなったように見えるかもしれないけれど、
見切り発車の優しさでは、結局誰のことも本当の意味では幸せには出来ないし、
挙げ句の果てには自己犠牲やエゴに塗れて、優しさや愛であるはずだったものはあっという間に
怪物に姿を変えてしまう。


そんなの、絶対もったいないじゃない。

だからこそ、選ぶ必要があるのだ。


自分を。
優しさや愛を与えたい誰かを。


きちんと選んでいくこと。


わたしと同じく、この問題を抱えてしまう人の多くは
共通して、 "選ぶ" ということをおざなりにしてきたように思う。

それをちゃんとやっていくこと。

紙一重である自己犠牲やエゴに姿を変えることなく、
優しさは優しさとして、愛は愛として、ちゃんと渡せるように。


誰にでも

ではなく、

大事な誰かに。

その為にまずは
自分を知り、許し、大事にすること。

知ってるよ。でも、わかってはいなかったでしょう。

たったこれだけで何が変わるのか。

わかるよ、でもね
少なくともわたしは今、すごーく気持ちが軽いです。


だから、嫌な自分が顔を出しても
もう重く捉えすぎない。責めすぎない。


わたし自身が持つ"黒"も、許しはじめた。
だって、だからこそ余計に


誰かを愛し許すことだって、できるはずでしょう。


そりゃあこれから、自分を許せない日もあるだろうけど
前よりは楽かもね。ようやく方法が見えたから。



自分は、一番近くにいる他人で。
自分とだって人間関係。
自分との関係をおざなりにすれば、人との関係だって良くなるはずがない。

それがちゃんとわかれば、第一段階は突破。

そうやって一段ずつ、着実に、少しずつ、やっていこう。

他人に優しくするように、自分に優しくしてあげたい。
人に、自分に、愛を持って接したい。


優しさや愛の成分はきっと
気力と体力と余裕で。

それをつくることから、気づくことから、始めるべきなのだ。







最後に

あなたと、
これから先でまたループにハマり、迷ってしまったわたしへ
これを読んで、答えはいつもシンプルであることを、本当の意味で思い出せますように。
1日でも早くそのループから抜け出して、身軽に、気楽に、生きていけますように。


過去の、今の、未来の、

わたしたちのために。


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