一首評:我妻俊樹「十月」より
最近、我妻俊樹の短歌がとても好きで、氏のTwitterで発信される新作も楽しみにしている。
読んでいるのだけれど、恥を忍んでいえば、どう読んだらいいのかわからないことが多い。でも、わからないのだけれど、読みたくなるし、なにより読んでいると身体のどこかが気持ち良い(脳であったり耳であったり胸であったり)。
そんなわけで、一昨日発表されたばかりの連作「十月」の中から一首選んで、読んでみようと思う。
町内会やスーパーの掲示板に、地元の「夏祭りのポスター」が貼られていることはよくある(と思う)。そしてそのポスターが「ずっと裏返し」になっていたところも見かけたような記憶も、私の中にも確かにある。
おそらくはお知らせのポスターを一度は貼ってみたものの、何らかの理由で夏祭りの開催が危ぶまれてしまい、かといって、完全に中止が決まったわけではないので剥がすわけにもいかず、とりあえず裏返しにしておこう……そんなことがかつてあったような気がしてくる。
ずっと裏側が見せられている日々。それが繰り返されているうちに、この「裏返し」のポスターの表側をずっと見せられている世界が、いま同時に存在するように思えてくる。
それは、私たちのいる世界と隣り合わせで、いつもであれば「ポスター」の裏側ばかりを見せられている世界だ。
その世界こそが「あの世」であると、このうたは問いかける。
いや、理路が逆なのかもしれない。いつもの私たちは表側ばかりに晒されている。そのようになっている。それゆえに裏側ができてしまう、「あの世」が発生してしまっているのかもしれない。
表ばかり見せられているがゆえに生まれる裏側という「あの世」。
そしてこの表と裏は容易に反転する。
何らかの理由で—たとえば、疫病とか災害とかあるいはいつかくるかもしれない戦争のために、夏祭りの開催が危ぶまれた時に、ポスターは裏返される。こちらが裏側になる。「あの世」になる。
いや、これも理路が逆なのだ、きっと。
「夏祭りのポスター」が「ずっと裏返し」になってしまうのは、すでにこちらが「あの世」になってしまっている証なのだ。
そしてそれに気付いたものは「あの世ってそういうことでしょう?」と問いかける。「こういうことでしょう?」ではなく「そういうことでしょう?」と問いかける。
おそらくは、こちら側ではないむこう側へと、問いかけているのだ。
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