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私はときおり「さだまさし」について考える

実は、小学生の頃からさだまさしのファンで、過去にはコンサートに何回か行っているし、レコード・CDも買い集めていた。いまでも、ときおりiTunesで聴き返している。『飛梅』や『晩鐘』、『まほろば』や『黄昏迄』……好きな曲は数え切れないほどある。

短歌を始めるようになって、さだまさしの作詩(これは誤記ではない、さだまさし自身がこだわりをもってクレジットには作詞ではなく作詩と書いているのだ)の凄みをあらためて感じている。

まずなにより日本語が美しい。古くからある言葉を違和感なく織り交ぜていく。たとえば、秋の季節の恋人との別れを鮮やかに歌った『晩鐘』のラスト一節。

君は信号が待ち切れなかっただけ
流れに巻かれた浮浪雲桐一葉
銀杏紅葉の舞い散る交差点で
たった今想い出と出会った

小学生の頃の私は、古典を読んだりする前からこの歌詞を通して「浮浪雲」や「桐一葉」という言葉やそこに潜む情感を知ることができた。

この一節は、さだまさしの歌詞のなかでも個人的に一番好きなもののひとつなのでもう少し書かせてもらうと、促音「っ」や「た」音が拍感を作り出していて、曲のラストの絶唱の力強さを生み出していると思うし、前述の古くて美しい言葉を強く響かせる手助けをしていると思う。

それから、情景描写の具体と抽象、具象と心象のバランスがとてもうまい。たとえば、死別してしまった恋人との思い出とともに生きるひとを描き上げた『黄昏迄』の冒頭の一節。

海を見下ろす丘の上は
何時(いつ)でも向い風が吹いて
空と海の青と思い出とが一列に並ぶ

具体的な「空と海の青」に「思い出」という語を並列させることで、実際の風景を描写するとともに、この主人公の心象も一気に描写する。そのうえで読み返すと、いつも吹いている「向い風」とは、風景であるとともに、主人公の心象でもあるのだろうと気づかされる。

曲の冒頭にスッとでてくるフレーズだけど、この詩を、私には書こうと思っても書ける気がしない。

そうなのだ、さだまさしの作詩をみていると、「自分は短歌でこれほどの質の高い言葉の連なりを生み出せるだろうか……」と、不安にすらなってくる。

不安になってばかりでは仕方ないので、自分自身の言葉の土台……というよりはもっともっと奥深いところにある地層のような何かを確認したい時、美しく力強い言葉のありかを確認したい時、さだまさしの楽曲を聴くことにしている。そして、またおそるおそる作詠へと向かう。

やはりいまでも、私にとってさだまさしは「憧れの詩人」なのである。

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