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昭和も楽しかった。

僕の中で、このnoteには深い意味はない。書きたいから書いてるだけだ。
ただの暇潰しにの為に書いているつもりだったのに、こないだ会った人に
「このnoteから広がる御縁があるから定期的に書いた方が良いよ!」
って言われたので時間があればすぐに書けるので意識的に書く様にしてる。

前回の記事に、昔から兄弟でやってた「新聞配達」の事を書いてた。
あの頃も楽しかったなぁ。昔の思い出がどんどん溢れ出てきたので、忘れないうちに今日は書いてみる。

僕の兄弟はみんな小学生の頃から新聞配達をして、お小遣いを稼いでた。その経験から、お金を稼ぐ事の大変さと貯める事の難しさが身に染みて分かった。

僕の場合は、小学校3年生から中学3年生くらいまでやった。
小学校3年生の時の給料は月に2,000円だった。年長の兄が高校に進学すると新聞配達を辞めて、もっと割の良いアルバイトをするので、年下の兄弟が新聞を配る軒数が増えて、それに伴って給料が増えていくシステムだった。

小学校3年生の時は6時くらいに母に優しく「今日は行けるか?」と起こされる。
父に起こされる時はマジでダルかった。
どんな朝でも「小鳥がピヨピヨ鳴いてますよ❤️」って起こされる。「あーまた言うとるわ。だるいなぁ。」と思いながら起きる。
給料が減ったら嫌なので、布団を飛び出して「だるまや」の向かいのバスの停留所に準備してある新聞を取りに行って、そこから1日が始まるのが日課だった。

雨が降っても雪が降っても休む事なく毎日毎日配った。
時には、近道しようと田んぼの「あぜ道」を自転車でフラフラしながら走って、そのまま田んぼに自転車ごとダイブした。
もちろん新聞はドロドロ。
どうしようと悩んだ結果、しょうがないので優しい住人の家を選んで泥の被害の大きい新聞から入れて回る。
怖い住人の新聞はちょっとだけ汚れてる。
そうする事によって、たぶん怒られない。と言う図式が僕の中で成立した。
もちろんポストも新聞の泥で汚れてた。

家の前で、体とチャリをバレない様に洗ってたら、やっぱりオヤジに見つかって「なにを冗談しとるんや!」と言って怒鳴られる。
そして、オヤジも新聞屋さんから電話が掛かってきて怒られてた笑
そこまでの図式は想定してなかったが、世の中はそう言うもんだと知った。
あの頃の世の中は今ほどクレームもなく生きやすかった。

新聞配達は、ただ朝に起きて配ったら良かっただけだったけれど、僕の兄弟は新聞代の集金までこなしてた。
これはスゴい事だと思う。
辺りが暗くなってきた頃に新聞代の集金に回る。
人の家の玄関のチャイムを押して
小学校3年生の子が「新聞代の集金でーす!」と叫びながらして回るのだ。
今なら絶対に考えられない。
今、もしもそんな子が僕の家に回って来たら、家に入れてあげてチョコレートとジュースをあげたくなる。(犯罪だろ)

新聞代の集金業務はとりあえず大変だった。各家を回れば、ケチなおばちゃんにメッチャ嫌な顔をされて意地悪な対応をされる事もあった。
とにかくお釣りの計算ができなかったんだ。
でも、僕を待ってくれてて、ミカンをくれる家庭があったり、集金に行った僕に「お釣りはいらん!」と、いつもお小遣いをくれる家もあった。

なんだか嬉しかったけど、当時はお釣りの計算が出来ずに、幾ら頂いたのかも分かってなかった笑
だから、お小遣いとして直接100円玉を僕のポケットに入れてくれるおばちゃんの方が好きだった笑

実家の近所の家に集金に行けばバカみたいな犬の「シロ」に追いかけ回されて小銭をばら撒いたりもした。
何円落としたのかも分からないし暗いし見えないし、犬が怖いし拾いにも行けない。

もちろん集金の金額が合わない。家に帰れば、親父が集金金額の計算をする。
恐怖の瞬間。
基本的には毎回「集金金額が合わない!」とオヤジに叱られた。

あの頃を思い返すと辛い事も全てひっくるめて楽しかった。
もう何もかもずっと楽しかった。

今から30年後に、2022年を振り返った時に僕はどう思うだろうか。
その時を想像してもっと全力で生きたい。

今、僕が過去を振り返っているこの感覚でありたい。

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