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ブランチとコヒーレント (7)

2021年11月のコヒーレント (1)

自分がねこさんと出会ってからというもの、ご時世もあり、音楽を奏でる姿は動画配信サイトでしか観ることができない。ねこさんを認識して半年、興味が深まった頃、あちこちのライブハウスで観客数や声援の制限を加えた形での公演が始まる。そしてねこさんから待望のライブの知らせが。

ある晩のねこさんのビデオ配信で、そのライブでの曲のリクエストに話が及ぶ。正直ようわからないのだけど、まだちゃんと聴いたことのない曲、そして何よりもお気に入りの詩という事で、シャンプー水で薄めてごめんね、をそろっとリクエスト。

果たしてリクエストが届いたのかわからないけど、例えセットリストに載らなかったとしても、生演奏のねこさんが観れるというだけで十分。

会場は渋谷オルガン坂にあるライブハウス。ここに箱があるとは知らなかった。昔、この向かいにあった小さなビルにスターバックスが入っていて、ほぼ毎日通っていた時期があった。懐かしい場所。当日は近辺を探索しながら時間の巻き戻しもしてみることにしよう。

ライブ当日の夕方。肌寒い中、スペイン坂を登りオルガン坂に差し掛かる。辺りは自分が知る風景から完全に一変している。

昔スターバックスが入っていた細長いビルは根本から無くなり、巨大な商業施設の煌びやかなショーウィンドウは、自分とは全く縁のないブランドで埋め尽くされている。

近辺を徘徊するも、当時を偲ぶものはあまり無く、時間を巻き戻す事は叶わなかった。都会の新陳代謝は本当に早い。

時間が来て、会場へと足を運ぶ。
以前のイベントとは異なり、今回は所縁のない演者さんが対バンに名を連ねている。

いつかと同じく要領を得られぬまま席に着き、初めて観る演者さんの演奏に耳を傾ける。自分の知らない世界がまた現れる。見えないところで練習を積み重ね、1回1回の本番に向かう演者さん達。こうやってライブができることは、どれだけ幸せな事だろう。早く平常運行に戻ると良いのに。



2人の演者さんの演奏が終わり、いよいよねこさんの出番に。ステージにはグランドピアノが置いてあり、おもむろにねこさんはピアノの前に。CM曲を歌い始める。

初めてのねこさんの演奏を耳にする。まるで自分の子供の初めての演奏会を見守るかの様な気分。

そしてねこさんはアコースティックギターを抱え、noteに詩が載っている曲を弾き始める。ねこさんと初めて出会った日の夕方に掲載された詩だ。想像の世界なのか、実体験を元にしたのか、色々な空想が頭の中を巡る。

その歌詞の中、4畳半というキーワードが自分の胸にささくれだったまま突き刺さっていたことを思い出させる。



時はバブル絶頂期、上京したての自分は自由が丘の風呂無し4畳半を根城にしていた。

進学先は短大で、同じ専攻の同級生120人は女性、男性は自分含め2人しかいなかった。周りは金回りの良い連中ばかりでインカレサークルとかに精を出していた。

一方自分は小汚い格好で、学校の地下にある軽音楽部の部室でもあったスタジオに篭り続けていた。
インターネットはおろか携帯電話も無い時代なのにテレビも固定電話もガスも開通していない生活で、全てから隔離されていた。たまに家賃を滞納して近所の大家さんの家に連行されたりした。
みんなのような生活は送れなかった。

ある意味寂しかった。けど、不思議とみんなを羨ましいとは思わなかった。

ファッションではなく極めて自然にgrungyになっていた。学校の地下スタジオは夜遅くまで無料で出入り可能で、救いだった。

その頃買った高い物と言ったらStaffordのエレアコと、当時はなかなか入手が難しかったDr. Martensの3ホールの靴。それだけ。3ホールは本当にボロボロになるまで履き潰した。お金はいつもぎりぎりの生活費と忘れた頃に請求がくる学費で消えた。

その頃、一人の女性に一年で8回振られたことがあった。今となっては笑い話で、後日談と含めて同級生と会うと必ずネタになる昔話。そのささくれは今は自分に同化していて、痛みどころか愛おしさすら感じる。

しかし、その女性の記憶からは自分の存在は消去されているだろう。こんな風に詩になったりする事無く。ねこさんの詩を読むと、自分の不甲斐なさやダメさ加減でささくれが刺さった部分が疼き始める。

もしも自分がそういう境遇の時にねこさんと出会っていたら、果たしてこの様な歌は生まれていただろうか。やっぱり8回振られたのだろうか。

静かに、語る様に、自分の中で反芻してきた詩がギターの音色と共に語られる。リクエストした曲だ。

この瞬間を待っていた。耳は全力で譜を追いかけながら、中古で買ったニコンの古いレンズを構え、開放絞りf/3.5、手動ピントでねこさんの表情を追い込む。それにしても老眼がきつい。

人気が全く無い、スペックだけ見ると誰も見向きもしないレンズ。だけどそのレンズを通じて捉えられた光は、ステージの照明をフレアで軽く包みながら、ピントの芯は崩さない。

あのメイド喫茶の出口で立つねこさんの姿を見た瞬間、このレンズは光を受けるねこさんを撮る時に、と思っていた。やっと叶った。

時にはリズミカルなカッティングに乗せて、時には絞り出す様に、またある時は艶やかなねこさんの歌声は、観覧前の想定以上に詩的な演奏だった。すっかり音楽から距離を置いて生活している自分が耳にする、いわゆる世の流行りの音楽は、耳触りはいいけどその人の中に定着するかと問われると、正直よくわからない。

一方ねこさんの曲は、これはライブで聴いたからというのが多分にあるのかもしれないけど、一旦自分に入り込むと中々出ていかない。楽曲中のとある音色だったりリフだけが自分の中に残ったりする事はあるのだけど、ねこさんの場合は詩の断片が張り付いてくる。しかも詩では触れられていない切ない気持ちとパックで。

受け手の脳内に入り込み写像を受け止められる曲は中々出会えない。多感な10代後半ならいざ知らず、水分が抜けてかさついている50代に張り付いてくるとは、厄介な。

ステージが終わり、ライブハウスを出る。ねこさんとのコミュニケーションは無いに等しく、相変わらず距離は遠い。通りではカップルが楽しそうに並んで歩いている。人々を追い越す様にスペイン坂を独り降る。周りの人々とはまったく異なる理由で、気分は宙に浮いたままで。

カバンの中にはねこさんがいるバンドのCDが3枚。
自分の人生、唯一の歌姫と出会った日。

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